english

ここから本文エリア

紙面から from Asahi Shimbun

この記事の英語ページへ

聞きたかったこと
焼けた父の背中 鮮明に 広島県福山市 広中正樹さん (70)
(2010年3月3日 朝刊)

写真 父の思い出を語る広中正樹さん。毎日、幼稚園に送ってくれる父と別れるのが寂しかった記憶があるという=福山市手城町

写真 広中正樹さんの父、一さん=1944年撮影、広中さん提供

 焼けただれた父の背中を思い出すたび、言葉に詰まる。「5歳の頃に戻ってしまうんです」。広中正樹さん(70)=福山市=は取材中、しゃくりあげて涙をこぼした。被爆体験を子どもたちに語る時もいつもそうなるという。自作の漫画には、あの夏の記憶が鮮明に描き出されていた。

    □

 厳しくて、優しくて、家族思いの父だった。

 1945年8月6日朝。広中さんの父、一(はじめ)さん(当時37)は背広に身を包み、広島市己斐町(現・西区)の自宅から、勤め先の広島鉄道局(同・南区)へ向かった。約30分後、轟音(ごうおん)と爆風が襲ってきた。自宅前の小川で遊んでいた広中さんは水中に倒れ込んだ。幸い、裏山が爆風の勢いを弱めていた。広中さんは軽いけがで済み、屋内にいた母と妹も無事だった。逃げ込んだ防空壕(ごう)で黒い雨を見た。

 雨は午後に弱くなり、自宅へ戻った。開けっ放しの家に見知らぬ30代前後の男性が4人いた。2人が玄関に座り込み、2人は家に上がり込んで寝そべっていた。みな大やけどを負い、顔や手の皮膚が糸くずのように垂れ下がっていた。恐ろしかった。「水を……」と言う男たちに、母と一緒に水をさしだした。同じような姿の人々がその後もぞろぞろと通り過ぎていった。  夜になっても父は帰ってこなかった。近所の人から「近くの学校にいるらしい」と聞き、親子で捜しに出かけた。大やけどの人とすれ違うたび、「お父さん?」と尋ねた。だが内心では父は無事だと思っていた。朝に見送った元気な姿しか頭になかった。

 校庭は家族を捜す人たちであふれていた。無残なやけどを負い、寝そべっている人たちを見るたび、幼心にも気の毒に思った。ただ、父は見つからなかった。不安が少しずつ胸を締めつけ始めた。

 自宅に戻ると、真っ暗な土間で父がうずくまっていた。あの糸くずが、父の体からも垂れ下がっていたが、会えただけでうれしかった。「お父さん」と声をかけると、父は「わしも捜しとったんじゃ。水をくれ。身体を冷やしてくれ」。声は弱り切っていた。背広姿のりりしい父の印象はどこにもなかった。

 通勤途上の電車内で被爆したという。背中には、分厚いガラス片がびっしりと刺さっていた。「正樹、抜いてくれ」と頼まれたが、深く食い込んでおり、手ではどうしても抜けなかった。自宅のペンチで抜こうとしても、ガラスの先端が割れるだけで、どうにもならなかった。

 「父はあの時、死が近いと分かっていたんじゃないか。おやじの姿を覚えておいてくれって、背中を見せたようにも思う」。65年後の今、広中さんはこう考えている。

    □

 一夜明け、父がもだえ苦しみ始めた。夕方、付きっきりで介抱していた母が「お父さんが苦しそうだから、正樹も近くに来なさい」と呼んだ。広中さんは行かなかった。家族に涙を見られるのが恥ずかしかった。柱に額を打ち付け、声を押し殺すように泣いた。よくおんぶしてもらった温かい背中と、焼けただれた背中とが脳裏で交差した。「父と別れるのがこんなに辛いなんて」。ガラスが吹き飛んだ窓からは、セミの声に混じり、母が何度も「正樹」と呼ぶ声が聞こえていた。

 父は間もなく事切れた。顔にかけられた白い布を外すと、苦しみの消えた、いつもの優しい顔があった。     □

 戦後、父の郷里、福山へ移った広中さんは高校卒業後、繊維メーカーや電気工事会社で働いた。定年後の2002年8月6日。地元の被爆者慰霊祭に参列した広中さんはふと不安を覚えた。被爆者の姿が減り、出席者たちの顔も一段と年老いたように見えた。「記憶がしっかりしているうちに、自分の体験を残さなくては」と思った。

 父が亡くなるまでの出来事を、絵と文章でノートに書き出していった。驚くほど鮮明に思い出せた。6色の色鉛筆で色をつけた。防空壕の中、家の前を歩くけが人、父の死……。5歳の自分が見た光景が29ページの漫画になった。当時、認知症で施設に入っていた母が自宅に帰ってきた時、漫画を見せた。母は大きな声で泣き出し、「ありがとう」とつぶやいた。

 漫画は2人の息子にも見せた。感想はあえて聞いていない。息子たちは、原爆の記憶を懸命に残そうとする自分の背中を見ている。気持ちは伝わっているはずだからだ。

    □

 06年8月、被爆者団体の友人に請われて福山市の中学校を訪れた時、初めて漫画を見せながら体験を証言した。父と別れる場面では涙ぐむ生徒がいるほど、みな真剣に聴き入ってくれた。胸が震えた。「自分なりに、本気で若者たちに伝えていこう」。広中さんは、語り部として生きていこうと決意した。今年4月には、日本被団協の代表団の一人として、核不拡散条約(NPT)再検討会議が開かれるニューヨークへ行き、現地の若者らに証言する。

 広中さんは毎日、仏壇の父に語りかけている。「わし、語り部として頑張りよるよ。ねえ、お父さん」。最後にはどうしても、涙声になってしまう。

(中野寛)