english

ここから本文エリア

紙面から from Asahi Shimbun

この記事の英語ページへ

聞きたかったこと
「一人」何よりつらい 広島県 河口房子さん (97)
(2010年8月6日 朝刊)

写真 アルバムを眺め、記憶をたどる河口房子さん=広島市安佐南区八木3丁目

写真 1943年ごろ、河口房子さん(右から2人目)と亡くなった夫、子どもたち=河口さん提供

 「一人のお婆(ばあ)さんが『助けて―!!』って来たんよね。お乳から骨が見えるほどダラーっと乳がさがっとった。自分も身が全部とれてほおが垂れ下がった。恐ろしくてよう見られんかった」

 広島共立病院(広島市安佐南区)がこの夏発刊した被爆体験集「ピカに灼(や)かれて」を読み、河口房子さん(97)=同区=の手記に圧倒された。病院職員に語った惨状が生々しくつづられ、「でも、若い人には言うとかんと、と思って」と締めくくられていた。

 言っておきたいことって何だろう。聞かせてほしい、と自宅を訪ねた。「でもね、原爆よりもつらいこともあったんよ」。房子さんは息を吐き、記憶をたどってくれた。

     □

 島根県の農家の三女に生まれ、すぐに親類の家に養女に出された。小学3年の時に生家に戻されたが、「房子はよそ行っとったから」と実母は冷たく、房子さんの衣服を勝手に近所に売り払った。食卓も父母と別にされた。「頼る人なんていない、一人で生きていこう」と心に決めた。

 1933年に結婚し、夫の兄が営むメリヤス問屋を手伝うために釜山へ渡った。しかし、日中戦争が始まって商売の先行きに不安を感じ、39年に本土に戻った。友人の紹介で広島市南竹屋町(現・中区)に住んだ。

 体が弱い夫は結核で床に伏しがちだった。子が2人いたが、食べ物が乏しく、栄養状態は悪かった。結核に感染した長女は43年1月に3歳で亡くなり、夫も2カ月後に後を追った。たった1人残った10歳の長男も腸チフスにかかって入院した。戦時下で、満足に治療も受けられなかった。「父さんも妹も死んで、母さん一人になるけど待っててくれる? 僕は戦争に行くから」。同年4月、長男はそう言って亡くなった。

 「子どもを亡くし、本当につらかった。死んでもいいと、何度も思った。だけど、原爆でも死なれんかった」

     □

 房子さんは44年、別の男性と結婚した。ただ、相手は酒癖が悪く、まもなく逃げ出した。妊娠していた。

 45年8月6日、房子さんは長束(現・安佐南区)の友人に米と砂糖を届けようと自転車に乗った。白島(現・中区)の広島逓信病院前にさしかかった時、空がピカッと青く光った。爆心地から1キロ。右のほおに強い痛みを感じ、道ばたの溝に飛び込んだ。

 病院内から人々が次々と出てきた。割れたガラスが突き刺さり、みんな血まみれだった。体中にやけどを負った老女は乳房とはらわたが垂れ下がり、骨がのぞいていた。自分の右ほおの皮膚も垂れ下がっているのに気付いた。

 自宅がある南の方向は火の海だった。崩れた家々を乗り越え、大芝(現・西区)の方向へ逃げた。河原に何人もの兵士が倒れて死んでいた。

 「助けてくれー」。叫び声があちこちから聞こえた。がれきのすき間から顔が見えるのに、助けられない。パチパチと音を立てて炎が迫ってきていた。「まるで地獄。今でも声が聞こえる。忘れたくても忘れられない」

 トラックに乗せてもらって山本(現・安佐南区)へ逃れ、親切なおばあさんの家で2日間休ませてもらった。島根の実家に帰ると、姉が看病してくれた。右ほおのかさぶたをピンセットでむくと、ピンク色の内皮が見えた。化膿(かのう)して異様なにおいが出た。ハエがたかるので、クレゾールを水で溶いて消毒した。やけどはやがて癒えたが、右耳の聴力は戻らなかった。

     □

 戦後、知人を頼って西原(現・安佐南区)に行き、牛小屋を借りて実家から追ってきた弟と一緒に住んだ。46年2月、哲(さとし)さんが生まれた。自分で縫った着物を自転車で一軒一軒売り歩いた。

 55年、3回目の結婚をし、皆実町(現・南区)に移った。夫の実家はバス会社の車掌などとして働く若い女性向けの寮を管理していた。休日用のおしゃれなファッションにあこがれる女性たちのために、房子さんはせっせと服を縫った。商売は軌道に乗り、人を雇えるほどになった。

 夫は10年前に亡くなった。今は哲さんと2人で暮らす。

 今年4月につまずいてひざを骨折した。あまり外出できなくなり、1日の大半をベッドで過ごす。哲さんが洗濯や掃除、買い物をこなしてくれる。「息子がいたから、生きてこられた。一人だったら生きてこられん」。ただ、2人の子に先立たれた悲しみは今も癒えない。毎日仏壇に線香をあげ、手を合わせる。

 通っていた広島共立病院で職員に勧められ、初めて手記に挑んだ。「戦争しちゃいけん。仲良くしなきゃいけん」との思いがあった。戦争は人々をたくさん殺す。自分の経験した悲しみをもう繰り返してほしくなかった。

 写真撮影をお願いすると、房子さんは「最後になるかも」とおどけて私をどきどきさせた。質問を重ねても嫌な顔を見せず、一つ一つ答えてくれた房子さんは最後に私をこう励ましてくれた。

 「私が見たこと、苦しみを、人に知ってもらいたい。伝える手段がないけえね。あんたらは持っている。立派な仕事をしてくださいね」

 (加藤美帆)