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紙面から from Asahi Shimbun

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聞きたかったこと
弟たちは天国にいる 東京都町田市 岡野道子さん (78)
(2010年8月2日 朝刊)

写真 長男が小学4年の頃、原爆に関するリポートを一緒につくった。岡野道子さんは「これは家宝です」と話した=東京都町田市玉川学園7丁目

写真 戦後まもなく、女学生だった頃の為廣(現姓・岡野)道子さん=岡野さん提供

 「どこから話せばいいのかしら。今まで、誰にも話したことがなかったから」  7月の昼下がり、東京・玉川学園前のカフェで私と向き合った岡野(旧姓・為廣〈ためひろ〉)道子さん(78)=東京都町田市=は戸惑った表情を見せた。

 「原爆に遭った体験を聞かせてほしい」とお願いした。「わかりました」。岡野さんは堰(せき)を切ったように語り始めた。「私は弟を見殺しにしたんです。50年以上、ずっと苦しんできました」

    □

 1945年8月6日、県立広島第一高等女学校(県女)2年の道子さんは、動員先の南観音町(現・広島市西区)の印刷工場に出勤していた。

 ♪なびく黒髪きりりと結び……。屋外で朝礼が始まり、女子挺身(ていしん)隊の歌を口にした時だった。左側から、熱を帯びた強い光を感じた。

 爆心地から2キロ余り。我に返ると、同級生たちがよろよろと立ち上がっているのが見えた。先生にかかえられて手当てを受けた。顔から首にかけてやけどをしていた。

 雨が降り出した。誰かが近くの池で取ってきたハスの葉をさしかけてくれた。だが服に無数の黒いしみが残った。

 印刷工場の疎開先になっていた己斐(現・西区)へ避難しろとの指示が出た。高台で眠れぬまま一夜を明かした。街は燃え続けていた。級友がつぶやいた。「あんなに喜ばなきゃよかった」。彼女の気持ちがよくわかった。学校で授業を受けていた時、自分も「早く家に帰れる」と空襲警報を内心喜んでいた。

 翌日、家の方角が同じ級友と、新川場(しんせんば)町(現・中区)の自宅へ向かった。住吉橋(同)にさしかかった時、10人ほどのけが人がうずくまっていた。子どもが1人交ざっていた。やけどで風船のように顔が腫れ上がったその子は、道子さんを見ると、糸のように細くなった目をさらに細めてほほえんだ。道子さんは息をのんだ。「賢ちゃん!」。3歳下で、中島国民学校5年の弟、賢二(けんじ)さんだった。

 なぜだろう。むごい姿に変わった弟が怖く、どうしても歩み寄れなかった。「ごめんね、家に帰って誰か呼んでくるから」。心の中でそうつぶやき、その場を立ち去った。

 自宅そばの県立広島第一中学校(現・広島国泰寺高)までたどり着いた。校庭の水槽に入って死んでいる子がいた。うつぶせだったが、道子さんにはわかった。国民学校2年で、6日朝は自宅にいたはずの弟、茂雄さんだった。

 なぜなのか。このときも、弟を抱き起こして顔を確かめることすらできなかった。

 自宅周辺はまだ熱くて近づけず、道子さんはこの日、八木(現・安佐南区)にあった県女の修練道場に逃れた。2人の姉、東京の大学生だった兄とは後に再会できた。女手一つで6人の子を育ててくれた母はこの年2月に亡くなったばかり。親切な農家に1室を貸してもらい、きょうだいだけでの暮らしが始まった。

 兄は大学卒業後も、賢二さんと茂雄さんをずっと捜し続けた。あの日、2人と出会ったことを、道子さんはいまだに打ち明けられずにいる。     □

 戦後に通い始めたカトリック教会で、1人のドイツ人神父と出会い、洗礼を受けた。広島で被爆したフーベルト・チースリクさん(1914〜98)。「死んだ弟のために先生になりたい」という道子さんの願いを知り、大学に進めるよう心を砕いてくれた。

 卒業後、郷里の私立校で教諭になったが、広島にいるのはどうにもつらかった。東京にいたチースリクさんに相談し、56年に東京都内の学校へ移った。

 別の神父が紹介してくれた男性と61年に結婚した。「原爆のせいで結婚を断られたことがある」と明かしたが、彼は「今、元気ならいいよ」と言ってくれた。4人の子を授かり、子育てに専念した。

 子どもたちに求められれば、原爆について話した。広島へも連れていった。ただ、弟のことは話さなかった。

    □

 60歳を過ぎてから、「聖書100週間」に通い始めた。旧約・新約聖書を3年半かけて読み通す集いだ。年を経るにつれ、自責の苦しみは増すばかり。神の言葉に癒やしを見いだしたいと願った。

 だが読み進めても、一言も見当たらない。あきらめかけた時、新約聖書の終盤にある「ヨハネの手紙」の一節に引きつけられた。「不義はすべて罪です。しかし、死に至らない罪もあります」

 「罪でない罪」。自分がしたこともそうではないかと思い始めた時、ベルギー人神父が言った。「自分をあまり責めないでください。弟さんたちは天国で、命の水を十分に飲んでいますから」

 気持ちが少し晴れた。「前向きに生きていこう」。そう思えるようになった。

    □

 「語り部になろうと思っているんです」。取材中、道子さんはいまの夢を語った。今月6日は、地元被爆者団体の代表として広島市の平和記念式に参列する。その後、被爆体験の証言者になる勉強を始めようと考えているのだという。「なぜ」と私が問うと、道子さんは小さく首をかしげ、つぶやいた。「弟の……。鎮魂でしょうか」

 4時間余りに及んだ取材の最後で、私はもっとも聞きたかったことを尋ねた。「誰にも言わなかった弟さんのことを、なぜ見ず知らずの私に話してくれたんでしょうか」

 道子さんは答えた。「聞いて下さったあなたが、ちゃらんぽらんじゃなかったから。あれは私の人生の原点。隠してしまったら、私には何も話すことがないもの」

(加戸靖史)