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紙面から from Asahi Shimbun

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聞きたかったこと
「おばけ」にショック 広島県 寺前妙子さん (81)
(2012年6月13日 朝刊)

写真 けがをしたのは、首から上だけなんです」と話す寺前さん=広島市中区の平和記念公園

写真 高等女学校の頃。「こんな顔になり、死にたいと思い続けた」=本人提供

 「わからないですか?」。広島市安佐南区の寺前妙子さん(81)は左の義眼を指さし、「原爆で、おけがはありませんでしたか?」という私の問いに答えた。生き残ったものの顔を奪われ、数々のがんや白内障に見舞われた。「これほど時間が経っても、ふとした瞬間、あの日を思い出す。忘れることが出来ないんです」。当時15歳の少女だった寺前さんは語り出した。

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 1982年2月8日も、そうだった。東京・永田町の「ホテルニュージャパン」の火災を伝えるニュースをテレビで眺めていた。火災から逃れるために窓から飛び降りる人たち。「ああ、あの時の私と同じだ」。胸が締めつけられるような思いになった。

 現在の広島市中区袋町あたりにあった広島中央電話局。進徳高等女学校3年だった45年当時、学徒動員のため電話交換作業に就いていた。

 8月6日朝、2階の廊下に整列していた時だった。差し込む光、爆音、建物が壊れる音。真っ暗になり、何も見えなくなった。しばらくして、炎の明るさで周囲が見渡せた。倒れている人がたくさん見えた。階段にも人が折り重なり、使えなかった。「窓から飛ぶしか、生きる道はない」と決意した。文字どおり、火事場の脱出だった。

 外に出ると、何人かの生徒に会えた。「ひどいけがをしているよ」と言われたが自覚は無かった。無傷だった担任の脇田千代子教諭(当時22)が引率してくれ、比治山の救護所へ。そこから重傷者を収容する金輪島に送られた。一方、脇田先生は他の生徒が残っている爆心地付近に戻り、30日に亡くなったという。

 父が迎えに来てくれたのは13日。本来の自宅は千田町(現・中区)だったが、4月に家族で疎開していた五日市(現・佐伯区)に戻った。爆心地付近で建物疎開の作業をしていた2歳下の妹が亡くなったことを知らされた。

 両親と2人の弟は無事だったが、弟たちから「姉ちゃんがおばけになった」と言われ、ショックを受けた。高熱と吐き気で寝込み、父と母に「鏡を見せて」とせがんでも見せてくれない。2カ月後、両親が外出した際に初めて鏡を見ると、左目を失い、焼けただれた顔をした別人が映った。「みんなと一緒に死にたかった」。何度そう思ったかわからない。

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 卒業後は大学に進み、教師を目指そうと思っていた。しかし、3日間あった大学の入試試験の最終日、どうしても会場に行けなかった。「教壇に立って、この顔を毎日生徒に見られると思ったら、どうしても無理でした」

 30歳まで自宅に引きこもり、洋裁と和裁の勉強を続けた。2度の整形手術を受け、顔の傷は徐々に目立たなくなったが、「近距離被爆者には奇形の子どもが生まれるとか、白血病でいつ死ぬか分からないと言われ続けました」

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   結婚はできないと思っていた。だが33歳の時、原爆症で妻に先立たれた博幸さんを紹介され結婚。妻は、自分と同じ年齢の被爆女性だった。当時すでに1歳の息子がおり、「この子を置いて死にとうない」と言いながら息を引き取ったという。「それを聞いて、少しでも力になれれば、とも思った」と振り返る。

 博幸さんとの間にも息子が生まれた。2人の子は、50代前半と40代後半でいずれも独身。博幸さんは15年前に亡くなり、今は3人で暮らす。「結婚しない息子たちも、被爆2世という心配があるのでは。親の犠牲になってしまったかなという思いがあります」

 88年に子宮がんで入院して以降、乳がん、甲状腺がんなど、「私は、もうがんだらけ」。白内障の手術も受けた。それでも今、自分は生きている。その意味を考え、現在は修学旅行の生徒たちに被爆体験を伝える語り部として平和記念公園に通っている。「体はしんどい。けれど、生きている限りは原爆の恐ろしさを伝えていきたい」

(後藤洋平)