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紙面から from Asahi Shimbun

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聞きたかったこと
被爆翌月、山津波襲う 広島県江田島市 上松利枝さん (79)
(2014年1月22日 朝刊)

写真 上松利枝さん

写真 昭和20年ごろ記念撮影した一家の写真。右から2人目の上が利枝さん、中央左が父の身利さん=本人提供

1945(昭和20)年9月17日、被爆地・広島を襲った枕崎台風。県内の死者・行方不明者は2558人にのぼった。江田島市江田島町の切串地区は山津波で多くの家屋が流され、145人が犠牲になった。同地区に住む市原爆被害者の会副会長の上松利枝さん(79)はその「切串大水害」で、父と妹を亡くした。

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 「戦前、広島市の観音本町1丁目で食堂と釣り道具店をしよったんです。店はお父ちゃん(平木身利〈みとし〉さん、37歳で死去)が始めた。お母ちゃんは4人の子がいて、6カ月の身重。空襲を心配し、昭和20年8月5日、母の郷里だった切串に疎開の準備できた。翌朝、いったん広島に帰宅するため切串の桟橋で船を待っているときに、ピカッ、ドーンじゃけぇ。自宅にはお父ちゃんだけがいた。船で宇品に行くと、『広島は大事(おおごと)じゃ、みな死による』って言われ、あげてもらえんかった。街はまだ燃えよった。7日朝、再び船で宇品に行ったんよ」

 天満川にかかる観音橋近くにあった食堂と釣具店の「平木屋」は、爆心地から南西約1・6キロ。広島市編集の広島原爆戦災誌によると、観音本町1丁目は当時、320世帯、1200人。原爆で街は焼失し、約7割が死傷した。

 「宇品の桟橋から観音本町まで母子4人で歩いた。所々に兵隊さんがおったわ。道を聞きながら、どうたどったんか覚えとらん。夕方ぐらいに着いた。自宅は大きな家じゃったが、影も形もない。焼け跡に座り込んで大泣きした。おばあちゃんが己斐におったんで、訪ねていってお父ちゃんと再会した。全身の皮膚は焼けて、ぶら下がっとったわ。妹は『お父ちゃんじゃない』って、また泣き崩れた」

 「お父ちゃんは警防団の偉い人じゃったけん。あの日は空襲警報が出て、それが解除になって家に帰るときにやられたんよ、ピカドンに。数日後、己斐から宇品まで大八車に乗せ、船で切串に連れて帰った。(地区中心部を流れる)長谷川沿いにあった山崎病院に入院させ、毎日、お母ちゃんと病室に泊まって看病した」

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 切串地区は45年3月調査で910世帯、約4200人。被爆後、山崎病院や国民学校、寺院が収容所になり、避難者は400人に達した。

 「(戦意高揚で建てられた)銃後館や国民学校の畳の部屋とか、やけどした兵隊さんらがようけおったね。うちらはうちわでハエを追うてあげるんじゃったね。ウジがわくけんね。ほんまに思い出したくもない話。

 9月に入ると、何日かずっと雨が降りよった。その日、ご飯を持って病院に行くと、お母ちゃんは『雨がよう降るけぇ、今晩は泊まらんでもええ』と言った。病室には3歳の妹が残り、山津波で3人が流された。翌朝、服がちぎれ、お化けのようになったお母ちゃんだけ帰ってきたわい。木切れか何かにつかまっちょった言うたね。お父ちゃんと妹は遺体で見つかった」

 枕崎台風は9月17日午後、鹿児島県枕崎市付近に上陸。最大瞬間風速75.5メートルを記録した。切串地区の大歳(おおとし)神社わきに建つ慰霊碑の碑文などによると、午後8時に大洪水がおき、一瞬にして山崎病院を含む91戸の家屋が流失した。

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 旧江田島町役場に30年勤め、定年になってから原爆被害者の会で証言をするようになった。日本被団協の代表団に加わり、2010年5月、核不拡散条約(NPT)再検討会議が開かれた米ニューヨークを訪れ、国連本部などで被爆体験を語った。

 「お母ちゃんは103歳で元気じゃが、原爆、ピカドンいうたら今も禁句じゃけんね。私らも思い出したくない」という。その一方で、証言活動の大切さも痛感している。

 「人はどうせ死ぬんじゃけぇ、なんで殺し合わにゃいけんのかいね。二度と戦争のない、核のない世界平和のために、若い世代に語り継がにゃあいけんよね」