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紙面から from Asahi Shimbun

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聞きたかったこと
河原一面に瀕死の人 東京都新宿区 加藤和巳さん (83)
(2014年1月29日 朝刊)

写真 広島の「平和の灯」と長崎の「誓いの火」を合わせて点火した新宿区役所の「平和の灯」の前に立つ加藤和巳さん=東京都新宿区

写真 野宿した河原で犠牲者の冥福を祈る加藤さん=2013年8月6日、広島市中区

写真 自宅は全焼し、昔の写真は残っていない。8月6日の、り災証明書=本人提供

 誰にも、忘れられない時や場所があるはず。東京都新宿区に暮らす加藤和巳さん(83)にとってそれは、被爆当日の夜に野宿した自宅近くの河原だった。昨年の平和記念式典に参加した後、68年ぶりに勇気を振り絞ってそこを訪ね、手を合わせ、ただ祈った。15歳の少年のまぶたに焼きついたこととは――。

    ■    □    ■

 当時、広島市の造船工業学校に通っていた。学徒動員先の江波(現・中区)の造船所にいたあの朝、外がだいだい色に光った。瞬間、爆風が吹いた。「爆撃が始まった」。仲間たちと作業台の下に隠れたが、敵機の気配はない。先生が来て、「広島はなくなっているらしいよ」と言った。

 午前11時ごろ、広島市の中心部に行く船が用意されて飛び乗った。広島市中区の住吉橋でおりて、東白島町の自宅に向かって夢中に歩いた。避難したのか、人の気配はなかった。市中心部の八丁堀につくまでは死体もあまり見なかった。

 自宅近くにたどり着いた。バス停で並んでいた人々のなきがらが倒れていた。自宅は門柱が1本残っていただけだった。一緒に暮らしていた父の姿はない。「もうダメだ」。初めて絶望に陥った。

 しばらくすると、近所のおばさんが、「近所の人たちが河原にいる。一緒に行こう」と声を掛けてくれた。言われるがままについて行き、一夜を明かした。

 闇の中、亡くなった人たちや瀕死(ひんし)の人たちが一面に横たわっていた。「ウー、ウー」。大きなカエルが出すようなうめき声がずっと続いた。それは今も耳の奥に残り続ける異様な音だった。ろくに眠れないまま、朝がきた。

 焼け跡の水道からチョロチョロ流れる水を少し飲んだぐらいだったが、自身は元気だった。近くにいた人の目のふちにわいたウジ虫を手で取ってあげようとしたら、その人の皮がズルッとむけた。改めてまわりを見渡した。亡くなった人たちの体はパンパンに腫れ上がっていた。

 父が南観音町(現・西区)の姉が嫁いだ家に行ったと、近所の人から聞いた。命を落とした人たちに何もしてあげられなかったことを無念に思いつつ、河原を後にした。

 その日のうちに父や姉と再会できた。しかし、見たもの聞いたことのショックがあまりにも大きすぎた。肉親と抱き合ったり、涙を流したりした記憶はない。ただ「良かった」。そう言い合った。
 ほどなく終戦。また率直に「良かったな」と思った。「夜、電灯をつけることができるようになったことはうれしかった」

    ■    □    ■

 それから長い、長い年月が流れた。終戦後に広島市内の音楽の学校で学び、東京へ。レコードの著作権を守る業界団体などで働いた。

 振り返ると「あの年」の秋には、歯ぐきから血が出て、下痢になり、1週間危篤状態になった。今まで生きてこられたことを不思議だと思う。今は新宿区在住の被爆者でつくる会の代表を務めている。

 昨年、あの河原を再訪し、あらためて思ったことは、「苦しみながら無念の死を迎えた方々がいたことを伝え、供養したい」。

 ♪城下街広島は消え 焼け野は熱く果てしなく煙のみ舞う 夜の河原は星遠く影が包む 逝きし人逝く人と共に臥(ふ)し――。あの夜のできごとを再現した歌をひそかに作詞作曲している。都内の被爆者たちと合唱のグループもつくっている。

 いつ、どんな機会があるかはまだ分からないけれど、東京の空の下、祈りを込めて、その歌を響かせるつもりだ。
 (清水謙司)