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紙面から from Asahi Shimbun

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聞きたかったこと
再会、父の記憶たぐる 大分市 萬田泰次さん (77)
(2014年3月5日 朝刊)

写真 父や当時のことを弘法愛子さん(右)から聞く萬田泰次さん=広島市中区千田町1丁目

写真 萬田さんの親戚の家にあった写真。3歳のころ=本人提供

 原爆で両親と姉弟あわせて5人を失った大分市の萬田泰次さん(77)。昨年、原爆死没者遺族の大分県代表として、平和記念式典に初めて参加した。原爆によって狂わされた人生を想像できないほど、明るい人柄にひかれて、話を聞いた。

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 あの日、9歳だった萬田さんはお使いを頼まれて、5歳と2歳の弟を連れ、広島市中区千田町の自宅を出た。先に出た姉に追いつこうと、先を急いでいた時、突然、ものすごい熱風で吹き飛ばされた。「一瞬のことで何が何だか分からなかった」。そこから先の記憶は断片的だ。

 どのくらい時間が経ったのか、我に返り、無我夢中で吹き飛ばされた下の弟と、柱の下敷きになった上の弟を助け出した。自身は頭のやけどで済んだが、2人は重傷だった。

 火の手を逃れて、海に向かっている途中で、背中の皮膚を後ろにだらりと垂らしてうめく姉を見つけた。

 下の弟を背負い、上の弟の手を引き、姉には自分のシャツをつかませて歩いた。履いていたはずの靴はなくなり、熱で溶けたアスファルトの上を裸足で進んだ。「感覚はまひし、何も考える余裕はなかった」

 河口まで歩き、船に乗って避難したが、姉は翌日、弟2人も数日後に亡くなった。「ショックもあったんでしょう、両親のことなどを考えたのは何日も経ってからだった」。両親がどこでどのように亡くなったのかも分からないまま、叔母の家に引き取られた。

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 戦後は新聞配達やせんべい屋、パン屋でのアルバイトなどで学費や教科書代を稼いだ。「誇りはあったけど、夜、家の外で涙ぐむことも多かったよ」と振り返る。

 体調面では、猛烈な倦怠(けんたい)感に悩まされた。午前10時ごろになると決まって「体が溶けるようなだるさ」に見舞われ、学校ではトイレでこっそり休み、社会人になっても何かと理由をつけて喫茶店などで休んだ。

 73歳まで、レコード会社、ジーパンの販売、商社、金融業、ホテル業など20以上の仕事をした。どの職場でも「あんたの天職やな」といわれるほど懸命に働いた。

 28歳で結婚。しかし、妻は59歳で亡くなった。子どもは2人いるが、孫はもういない。長男の娘は2歳の時、小児がんで亡くなった。「自分の代で子どもは絶える。それはやっぱり……悲しいね」。穏やかに話し続けていたが、このときだけは苦渋の表情を浮かべた。

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 2月初旬、広島で被爆当時住んでいた家の周辺を訪ねた。町内に当時から住むほぼ唯一の人、弘法愛子さん(88)に会うためだ。8月に広島に来た際、68年ぶりに再会。今回は、父の話をもう少し聞きたかった。

 「お父様は何か物を書いてらっしゃる方でしたよ。町内会ではよく発言されていました」。父の職業すら記憶になかったので、驚いた。「そういえば父は『先生』と呼ばれていた。昼間も家にいて机に向かい、たばこを吹かして……。天井は同じところが煙で黒くなっていたなあ」。当時の記憶がよみがえった。

 懐かしくて、うれしくて、弘法さんと近くの喫茶店で2時間近く話し込んだ。

 住んでいた家は区画整理でもう正確な場所は分からない。町の様子もすっかり変わった。「懐かしさはあまりないけど、父親の話を聞けて良かった。今になって、とても父に会いたいという気持ちになった」

 原爆への恨みはほとんど口にしない。でも、昨年の平和記念式典では、悲しみがこみ上げ、胸が詰まった。「平和こそ守っていかなくてはならない人類の世界遺産だ」と強く思ったという。

 がんを含め八つの病気を抱え、毎日23種類の薬を飲む。それでもこう言う。「人生いろいろあったけど、本当に一生懸命生きてきた。私はね、人生は楽しいと思う。夢とロマンを忘れずに、絶対100歳まで生きたいね」。いたずらっぽく笑った。
(鈴木春香)