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紙面から from Asahi Shimbun

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聞きたかったこと
大切な写真、家族思う 広島県三原市 下江正一さん  (73)
(2014年3月12日 朝刊)

写真 三原市文化協会美術展に縮景園の写真を出品した下江正一さん=三原市円一町2丁目

写真 妹敏恵さん

写真 母チエ子さん

写真 父一男さん

写真 4歳のころの下江正一さん

 趣味の写真が高じて公民館の写真講座で講師を務める下江正一さん(73)=三原市明神3丁目。4歳の時に被爆し、避難先の山口県岩国市から、さらに三原市まで歩いて逃避行を重ねたという。人づてに下江さんのことを知り、体験を話してもらった。

 下江さんには大切にしている写真がある。原爆で亡くなった父、母、妹の面影を唯一伝える3枚だ。父一男さんは軍服姿。母チエ子さんは花嫁姿。妹敏恵さんは1歳。1歳の誕生日に撮影したことが、写真の裏に記されている。

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 自宅は爆心地から約1.5キロの広島市中区東白島町にあった。いつものように父親を送り出した後、自宅から歩いて10分ほどのところの幼稚園にいた。室内で女性教諭と話をしていた時だった。突然、真っ白になった直後、真っ暗になり、吹き飛ばされた

 気が付くと体のすぐ横に、天井の太い梁(はり)が倒れていた。屋根から落ちた土で顔は埋まり、口の中まで入ってきた。寝返りを打って、手を伸ばしたところ、女性教諭に引っ張り出された。女性教諭の顔には割れたガラスが刺さり、血だらけだった。怖くなり、自宅に帰ろうと、泣きながら飛び出した。

 外では、木造家屋はことごとく倒れ、多くの人があちこちでうめき声を上げ、もがいていた。再び怖くなり、幼稚園に引き返した。

 「正ちゃん、正ちゃん、一緒に行こう」。幼稚園の前のがれきの上を歩いていると、そう呼びかける声がした。友人の母親だった。連れられて川べりに避難。夜には郊外の農家にたどり着き、何日間かを過ごした。

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 その後、孤児院のような場所に移り、しばらくして親戚が訪ねてきた。友人の父親が自宅跡に立ててくれた看板のお陰で、居場所が分かったという。岩国市にある母親の実家に身を寄せた。

 数カ月後、祖母に連れられ、今度は三原市の別の親戚のもとへ向かった。歩いたり、おんぶされたりして、三原を目指した。旅館のような所で何回か泊まった記憶がある。持っていた砂糖と交換した米を炊いてもらい、おにぎりにして食べた。

 三原市での暮らしが始まった。NHKのラジオ番組「尋ね人」をよく聴いた。もしかすると、家族が捜していて、自分の名前が呼ばれるのではないかと、かすかな期待があったからだ。被爆した軍人の頭髪が抜けたということを聞くと、自分もそうなるのではないかと不安になった。

 父親は市内の勤務先で、母と妹は自宅で被爆したとみられるが、はっきりしたことは今も分からない。遺骨もない。引き取り手のない原爆犠牲者の遺骨を供養している平和記念公園内の原爆供養塔に入っているものと思い、大人になってからは毎年8月6日、お参りをしてきた。

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 中学校を卒業後、映写技師や看板の絵描きなどで生計を立てた。20歳になったころ、白島周辺を訪れたが、町は様変わりし、当時のことはほとんど分からなかった。

 初めての給料で、質店で中古のカメラを買った。その後、三原市美術展に出品したところ奨励賞を受賞し、本格的に写真を始めた。

 20年前、全国規模のコンテストに、原爆ドームを被写体にした3枚組みの写真を出品した。画家、観光客とベンチにすわるカップル、川に浮かぶボートと、それぞれ組み合わせた。「問題視するのではなく、淡々ととらえている」と評価され、銀賞に輝いた

 「自分は奇跡的に助かって生き延び、結婚して2人の子どもにも恵まれた」と言いながら、「でも原爆がなかったら両親、妹と元気に暮らし、違った人生があったはず。人類と核は共存できない。原爆も原発もなくした方がいい」と思っている。
(東裕二)