english

ここから本文エリア

紙面から from Asahi Shimbun

この記事の英語ページへ

聞きたかったこと
心に悔い、抱えながら 広島市中区 森匡世さん  (88)
(2014年4月9日 朝刊)

写真 「戦争に喜怒哀楽を奪われた」と話す森匡世さん=広島市中区

写真 1944年ごろ撮影された写真。2列目左から2人目が森匡世さん=本人提供

 「死が当然で、生が不可思議だった世界」で同級生を捜し歩いたという広島市中区の森匡世(まさよ)さん(88)。
1月にこの欄で紹介した高知市の男性の姉と同級生だったと知り、会いに行った。「なぜあの時……」という悔いを抱えながら平和の尊さを訴えてきた。

     ■    □    ■

 1945年8月、広島女子専門学校(現・県立広島大)の3年生で、19歳だった。原爆が投下された瞬間は井口村(現・西区)に一部が疎開していた陸軍船舶司令部の兵舎にいた。朝礼の最中、白く大きな閃光(せんこう)が走り抜け、轟(ごう)音で兵舎が揺れた。他の学生たちと一緒に防空壕(ごう)に駆け込んだ。

 ほんの30分ほど前、路面電車で通った場所に、原子爆弾が落ちたことは後になって知った。

 翌日、井口から船で宇品(現・南区)に行き、南段原(同)の親族の家で暮らす弟の無事を確認した。両親や他のきょうだいは当時、岡山県津山市に疎開していた。

 戦時中の教育のこと、学徒動員のこと、原爆投下直後のこと。一つ一つ詳しく話してくれていた森さんがふと言った。

 「ベランダのお花に水をあげる時、今もあの渇きを思い出すの」

 そして、ほんの少しの間黙った後、「この話をすると、体がガクガクして動悸(どうき)がするんだけれど」と話し始めた。

     ■    □    ■

 8月8日、同級生を捜すため、市中心部に向かった。街は見渡す限り焼き尽くされ、遺体の腐敗臭が漂っていた。足にお椀(わん)ほどの水ぶくれができた兵士など何人もの遺体をあちこちで目にした。

 死の街ではハエだけが元気だった。何千匹もの黒い群れが、血が付いてボロボロの服を着て黙々と歩く人たちの背中をびっしりと埋めていた。

 広島駅北側の神社の境内には多くのけが人が集まっていた。「ナカザワヤスコさーん、ハンダマリコさーん」。同級生の名前を呼びながら、けが人の間を縫って歩いた。

 その時、消え入りそうな声がした。「姉ちゃん、お水ちょうだい」。地べたにうずくまった5、6歳の女の子が何かのかけらを載せた手を差し出していた。

 けれど、森さんはただ黙って、少女の前を通り過ぎた。何も感じなかった。

 捜し続けた同級生は結局、見つからなかった。

     ■    □    ■

 戦後、広島女学院中学高校(現・中区)で45年間、国語を教えた。ホームルームの時間などに、朝鮮に対する日本の植民地政策やベトナム戦争での米兵による住民虐殺などを取り上げた。戦争の悲惨さを生徒たちに伝えたかった。

 その間も「心のあざ」はずっと消えなかった。

 あの少女は不特定多数の誰かではなく、自分を呼び止めた。「なぜ声をかけることさえできなかったのか。あの時の私は一体何だったのか」と考え続けた。

 2010年のNHKの番組「ヒバクシャからの手紙」に応募し、急性白血病のために84歳で亡くなった同級生に語りかけた。

 長年の付き合いの中で互いに被爆体験を語らなかったのは、「当たり前の人間世界の出来事ではなかったからです」。そして、「何とも言えない恥ずかしさとみじめさで、心の奥深く閉じ込めてしまう出来事を、いろいろ抱えているのです」と続けた。

 翌年8月、中区の教会での講演の際にはこう話した。「戦争が私の人間らしさを奪い去ったことを痛切に反省するのです」

 森さんは今、このまま死ぬことに不安を感じている。憲法改正、特定秘密保護法、集団的自衛権のこと。「気がついたら戦争が始まっていたとならないように政治に関心を持ってほしい」と話す。

「私の時代にはできなかったようなおしゃれを女性ができるのも、平和だからこそ」
(南宏美)