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紙面から from Asahi Shimbun

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聞きたかったこと
赤ん坊の死体、脳裏に 広島市西区 宮川啓五さん  (86)
(2014年5月21日 朝刊)

写真 自宅のアトリエで、太田川の思い出を語る宮川啓五さん。現在、水を求め、亡くなっていった被爆者たちの絵を構想している=広島市西区

写真 被爆体験をもとに、赤ん坊や折り重なる遺体、牛車などを描いた1994年の作品「No1 ひろしま惨禍」=本人提供

 裸の赤ん坊、川に浮き沈みする多数の遺体、川岸に並べられた女学生たち――。広島市西区の日本画家、宮川啓五さん(86)は、被爆50年を境に、原爆投下直後に見た情景を描くようになった。どんな思いを込めているのか。被爆70年を前に聞いた。

    *

 太田川のほとり、広島市安佐南区西原で生まれた。15歳のころ、親に内緒で特攻隊に志願したが、目が悪かったこともあり、受からなかった。「『兵隊になってこそ男だ』という教育を受けていたから、悔しくて。でも、命拾いしたんですよね」。
約3年後の1945年8月6日。広島工業専門学校(現広島大工学部)へ自転車で通う途中、爆心地から約3キロの西区大芝付近で被爆した。

 直前にチェーンが外れ、大きな桜の木の陰で修理中、ピカーッと光が走り、後からきた爆風に飛ばされて気を失った。
意識が戻っても「何が起こったか分からなかった」。市内中心部から逃げてくる人波についていくのに必死で、夕方ごろに自宅へ戻った。家の天井は飛ばされていた。

 3日後。行方が分からなかった叔父2人を捜しに、舟で川を下った。市内中心部に近づくにつれて、川面に浮き沈みする遺体が増えていった。

 できるだけ左右によけようとするが、ゴツンゴツンとあたってしまう。そのうち、川底に沈んだ遺体に艪(ろ)がぶつかるようになり、進めない。両岸には、川に入ろうとした人たちの遺体が折り重なっていて、上陸する場所もなかなか見つからなかった。

 壊れて落ちた橋の欄干をたどり、ようやく上がれたのが相生橋の近くだった。周囲はまだ火炎や煙が上がり、異臭がひどかった。
ふと、生まれて間もない赤ん坊の姿が目に入った。仰向けに横たわり、両手を上げて死んでいた。周囲から、水や助けを求める声は聞こえていたが、親らしき人の姿は見当たらなかった。

 「こんなにむごいことがあるのか、と心の底から思った」

 捜していた2人のうち、牛車で建物疎開に出ていた1人は行方不明のまま。見つかった1人も10日ほどして亡くなり、火葬することになった。自宅の板具を外し、木ぎれを集めてリヤカーで運び、川のほとりで一人で叔父を焼いた。夕暮れ時。火に包まれると、煙のせいか指が動いているように見え、恐ろしかった。

    *

 両親は、原爆が落とされたとき、息子は安佐北区など爆心地から遠いところにいた、と周囲に話していた。「正直に話すと結婚できないし、非難される」というのが理由だった。

 風景に加え、平和への思いを込めて仏の絵も多く描いてきたが、原爆の情景だけは避けていた。「原爆から生き残ってしまった恥ずかしさもあった」と話す。

 だが、被爆50年を迎えるころから、画家としての寿命を考えるようになった。「生き残った責任」として1994〜99年、「ひろしま惨禍」と題する3作品を出した。

 どれだけ描いても、当時のにおいや熱さは伝わらない。何度も焼き捨てようと思ったが、原爆を知らない世代が増える危機感から思いとどまった。

 99〜2000年には、縦1メートル、横7メートルの大作「太田川」を発表。左から右に向かって太田川が流れ、上流から順に戦前から戦中、戦後の広島の四季を表現した。雪景色のなか、帆掛け船が行き交う冬、満開の桜の下で花見客がにぎわう春、原爆で一帯が炎に包まれる夏、復興に向けてクレーンが並ぶ秋――を描いた。本人自身と女性が河原で座っている姿もある。当時、写生中に3度会ったが、後に原爆で命を失った女性だという。

 「誰かに見てもらうためではなく、脳裏に焼き付いた情景を記録したかった。平和を象徴し、遺体が流された悲惨な歴史をも併せ持つのが太田川。多くの人たちに、過去の事実を知ってほしい」
(岡本玄)