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紙面から from Asahi Shimbun

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聞きたかったこと
御幸橋の「遺言」原点 広島市西区 坪井直さん  (89)
(2014年6月11日 朝刊)

写真 御幸橋西詰めで体験を語る坪井直さん。後方の写真パネルには、被爆当時の自身の姿が写っている=いずれも広島市中区、青山芳久撮影

写真 中学生に被爆体験を語る坪井直さん。身ぶり手ぶりを交えての語りは終始立ったままだった

 被爆者たちの思いや人生を記者がたどる「聞きたかったこと」は2008年4月に開始し、今回で200回目を迎えた。来年で被爆70年。核廃絶運動の先頭に立ち続ける、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)代表委員の坪井直(すなお)さん(89)=広島市西区=に、被爆体験や平和への思いをあらためて聞いた。(岡本玄)

 ピカッと銀白色の光が走った途端、顔を手で覆った。1945年8月6日。爆心地から約1.2キロ離れた富士見町(現・広島市中区)の路上で被爆した。爆風で約10メートル飛ばされた。

 当時、広島工業専門学校(現・広島大工学部)3年の20歳。戦前教育を受けた「軍国少年」は当初、「アメリカの野郎、よくもやったな。今に見とれ」と威勢が良かった。だが、体を見て、気力は一気になえた。

 服はぼろぼろで、腕から流れ落ちる血が指の先から滴り、腰からどす黒い血の塊が噴き出していた。歩いていると、右の目玉をぶらさげたまま歩く女学生、飛び出した腸を押さえながら逃げる女性にも出くわした。

 「助けて下さい、助けて下さーい」。全壊した家屋から救出を求める声も聞こえてきた。だが、火の海の中へ飛び込めなかった。「なぜ、助けられなかったのか」。その時の光景をその後、何度も夢に見た。

 あてもなくさまよう中、周囲の女性らが「御幸橋に治療所ができた」と話すのを聞いた。はうようにしながら御幸橋に着いた。だが、治療らしい治療はしていなかった。「もうだめ。死ぬ」。そう覚悟して小石で地面に記した。

 「坪井はここに死す」

 「遺言」のつもりだった。だが、間もなく、トラックでやってきた軍人に救われた。「そこの若いもん。早く乗りなさい」。礼を言うため、名前を聞いたが「名前なんてどうでもいい。早く元気になって、敵を1人でも2人でも殺せ」と言って、着ていたシャツをくれた。「見捨てられていたら、今の自分はなかった」。周囲の助けで「生かされている」との思いが芽生えた。

 一方、この軍人は「乗れるのは若い男性だけ。その他の者は後回し」とも叫んでいた。人の命が戦争に役立つかどうかで選別されるのを目の当たりにし、怒りもわいた。

 原爆投下の約3時間後。中国新聞カメラマンが、坪井さんが当時、御幸橋で座り込んでいる後ろ姿を撮っていた。現在、御幸橋や広島平和記念資料館などに展示されている写真だ。助けてくれた人々への恩返しのため、命の大切さを訴え続けたい――。写真に残る、あの時の記憶が、被爆者運動の出発点になった。

 ■「小説や映画でない」訴え続け
 似島(現・広島市南区)の野戦病院で治療を受けた後、音戸町(現・呉市)の実家へ。約1カ月間意識が戻らず、終戦も知らなかった。

 しばらく療養生活を送った後、教職に就いた。地元の音戸中などで数学を教えるなか、自ら「ピカドン先生」と名乗った。「原爆と言っても、子どもには難しい。『ピカ、ドン』と言えば、すぐ分かる。町を歩いていても、よくピカドン先生と言われたもんです」

 毎年8月6日が近づくと「今日は授業なし。私の話を聞いてくれ」と言い、数学の授業を「平和について考える」授業に変更。「大人になっても、原爆の恐ろしさだけは覚えておいてほしい」と訴え続けた。

 86年に退職し、被爆者運動へ。2000年から日本被団協代表委員を引き受けた。核兵器保有国の米国やフランスなど21カ国を訪問。米国の同時多発テロの遺族とも交流した。「米国といえども悪い人間ばかりではない、という当然のことが分かってきて、今では手をつなぐことができる」

 今年4月、広島市で初開催された核軍縮・不拡散イニシアチブ外相会合にも出席。参加12カ国の外相たちに、これまで12回の入退院を繰り返し3回は危篤状態になったと明かし、「私の被爆体験は小説や映画ではない。悲劇を二度と繰り返してはならない」と呼びかけた。

 ■核廃絶へ「ネバーギブアップ」
 2011年3月11日。中国・北京で講演していたとき、東日本大震災が起きたことを知った。

 予定を切り上げて帰国。被災した場所や状況、被災後の動きなどを克明に記録しておくよう、日本被団協から内閣総理大臣宛てに要請した。各地に分散し、被爆状況の確認が難しくなった原爆の教訓を生かしたかったからだ。

 反省もある。内部で慎重な意見があったため、日本被団協が「脱原発」を打ち出したのは、震災後だ。

 「人間の知恵では、原子力を手足のように操れず、克服もできない。チェルノブイリ事故も起きていたのだから、日本被団協もすぐピンとくるべきだった」

 今月4日に東京であった定期総会。「最後のご奉公になると思います。しかし、引き受けた以上、命の限り頑張るつもりです」。
代表委員に再任されたあいさつでこう切り出すと、全国から集まった被爆者たちから拍手が起きた。

 被爆者は高齢化し、解散する被爆者団体も出ている。「日本被団協も今まで通りではだめ。被爆者のための団体から、平和や人の命を守るための団体に変わっていかないといけない」と提言する。

 指名があれば1日に2回、被爆体験を証言することもある。締めの言葉は決まっている。「核廃絶が簡単ではないことは百も承知。それでも、少しでも運動が広がっていけばいいと思い、話している。あきらめてはなりません。ネバーギブアップです」

 ■使命感に向き合う覚悟
 2週間に1度の点滴を打ちながら、被爆証言を続ける坪井さん。約1時間、いすに座ることなく、身ぶり手ぶりを交えながら訴える。終えた後、疲れた表情を見せることもあるが、それでも続けているのは「たとえ体がえらくても、体験した者としての使命を果たす」との思いからだ。

 被爆者健康手帳を持つ人は3月、20万人を割った。ピーク時の半分近い。あの時を共有した人が減り「被爆者はもういなくなる」。坪井さんの使命感も日々、強まっているようだ。

 「聞きたかったこと」の担当記者は、私をはじめ20〜30代が中心だ。次世代への継承に向けて、残された時間が少なくなる中、被爆者たちの使命感に向き合う覚悟を新たにしている。(岡本玄)

 ■核に依存の平和、空虚に
 話をしてくれた被爆者の方々は、誰もがあの日を鮮明に覚えていた。原爆投下がなければ、記憶に残らない、ただの暑い夏の朝だったはずだ。

 雷が光った時、大きな音がした時――。もしこれがあの時だったら、自分は何を語るか、なんて事も考えるようになった。  核のある世界に生きている以上、またあの時が来ないとは言い切れない。自分が将来、被爆者にならないとはいえない。空恐ろしくなる。そんな時、核兵器に依存した安全保障体制が空虚に感じる。

 広島に来て、被爆者の話を聞き始めて1年が過ぎた。頭では分かっていたはずの、核兵器廃絶への思いが、自分のものになってきたように思う。(中崎太郎)

 <被爆証言、動画で公開>

 被爆者たちの証言を動画に記録し、発信する取り組みを始めます。朝日新聞デジタルのウェブサイト(http://www.asahi.com)に随時、掲載します。これまでの「聞きたかったこと」の一部は、特集サイト「核といのちを考える」(http://www.asahi.com/special/nuclear_peace/)で読めます。