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紙面から from Asahi Shimbun

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聞きたかったこと
核と人類、共存できない 京都府宇治市 米沢鉄志さん  (79)
(2014年7月9日 朝刊)

写真 「子や孫にも戦争の悲惨さを伝えられる。この本を出してよかった。いまはそう思っています」と語る米沢鉄志さん=京都市内

 京都府宇治市の米沢鉄志さん(79)は昨年7月、子ども時代の被爆体験をつづった本「ぼくは満員電車で原爆を浴びた 11歳の少年が生きぬいたヒロシマ」(小学館)を出した。これまで出版を勧められたことはあったが、断ってきた。「記憶違いがあったら、誤った歴史を残してしまう」。そんなためらいを捨てさせたのは、東日本大震災での福島第一原発事故だった。

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 《「どこかで何かが光った。強い強い光で、ぼくは思わず目をつむった。それから、ものすごい音がした。それまで聞いたこともない、すさまじい音だった。百個のかみなりが一度に、すぐそこに落ちたような音だった」》

 あの日、小学5年生だった米沢さんは、広島市内の祖父母の家に荷物を取りに、疎開先の市川村(現在の安佐北区白木町)から、母親と広島市内に出てきて満員の路面電車に乗っていた。原爆が投下されたのは、中心部の福屋百貨店前に電車がさしかかった時。爆心地からの距離は約750メートル。風速毎秒220メートルの爆風が襲ったといわれる。窓ガラスは一度に割れ、車内は悲鳴に包まれた。

 米沢さんも母親も、鋼鉄製の車両や満員の人垣に守られて大きなけがはなかった。その後、母親とさまよいながら見た広島は二度と忘れられない地獄のような光景だった。
 大きなガラス片が背中に刺さった女性を見た。建物の下敷きになった大勢の人、防火水槽に折り重なった遺体を見た。やけどに苦しむ女学生もたくさん見た。

 《「ぼくと二歳か三歳しかちがわない生徒たちが、たくさんのおとなにまじって次々と川にはいって、たくさん死んでいった。そのうちに、ぼくは何かを考えるのもめんどうくさくなって、目に入るものだけをただぼんやりと見ていた」》

 「表現できない、何とも言えないにおいとうめき声。とにかくすさまじい光景だった」と振り返る。当時34歳の母親は、その年の9月1日に亡くなった。体中が紫色になって、歯ぐきから血を流し、「もう殺して」と苦しんだ。
 10月19日には、母を追いかけるように、一番下の1歳ほどの妹が亡くなった。米沢さんは、栄養失調のほかにも、放射能に汚染された母親の乳が原因だったのではないかと思っている。

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 その後、京都の大学に進学し、就職。1954年にビキニ環礁での核実験で第五福竜丸が被曝(ひばく)したことをきっかけに、学校などで体験を語ってきた。

 そんな米沢さんに、福島原発の事故は大きな衝撃を与えた。出版を考えたのは、ふるさとを追われた福島の人たちのことを考えたからだ。「原爆と原発は、どちらも核であることに変わりない。戦争の悲惨さとともに、核と人類は共存できないということを、きちんと残したい」

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 改めて、語ったり字に残したりして伝えなくてはと思わせてくれた人とも出会った。2012年、原発の再稼働に反対して、仲間と関西電力京都支店の前で座り込みを続けたとき、参加してマイクを握った20歳ほどの女性に声をかけられた。女性は、小学生のときに米沢さんの被爆体験を聞いたことを伝え、「あのときの話が記憶に残っていて原発に反対しています」と話してくれた。

 時には、世間の無関心に焦りを感じることもある。街頭で反原発を訴えていると、うるさげに耳を押さえて通り抜ける人もいる。それでも、やりつづけるしかないと思う。

 「日本の状況は悪くなっていると感じる。戦争の悲惨さを、死ぬまで、できるだけ正しく伝えていき、少しでも多くの人に核と戦争について考えてもらえれば。生き残った私は、原爆の惨禍を訴え続ける責務を負っている」

 毎年8月6日には広島を訪れる。今年も、足を運ぶつもりだ。
(木村和規)