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紙面から from Asahi Shimbun

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聞きたかったこと
「水の絆」生き抜いた 広島市佐伯区 井関正子さん (81) 井上ヨシノさん (106)
(2014年7月30日 朝刊)

写真 支え合って生きてきた井上ヨシノさん(右)と、長女の井関正子さん=広島市佐伯区

写真 井上ヨシノさん=1928年

写真 バラックで建てた店の前で、次兄と写る井関正子さん(右)=1946年、いずれも正子さん提供

 69年前、広島市内は水を求めてさまよう人であふれかえった。多くの人が命を落とした中、「水のおかげで助かった」という被爆者もいる。広島市佐伯区の主婦、井関正子さん(81)は、その1人だ。取材で自宅を訪れると、母親の井上ヨシノさん(106)も入市被爆したと明かしてくれた。当時、何があったのか。母娘に聞いた。

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 長女の正子さんは当時、大手町国民学校(現・広島市中区)を卒業し、広島女子商業学校(現・広島翔洋高校)の1年生だった。食料が不足していた時代。軍馬のふんを拾って肥料にして、学校のグラウンドを耕してカボチャを作った。「神風が吹き、日本が勝つと信じていた」という。

 1945年8月6日朝。大豆かすの朝食を食べた後、学徒動員で建物疎開の後片付けをするため、爆心地から約1.5キロの鶴見橋のたもとへ出かけた。長袖の白いブラウスにもんぺ、げたをはき、肩から防空頭巾。瓦を拾おうとしゃがみ込んだ瞬間、光が見えた。「ピカドン」の「ドン」を聞くことなく、気絶した。

 気づいた時には、周りは暗かった。黒く、膨れあがった顔、バサバサの髪、ボロボロの服――。逃げる人の列についていくとみな、防火用のため池に入っていった。体が焼け付くように熱く、夢中で飛び込んだ。こけがぬるっとしていて気持ち悪かった。

 まるで銭湯のようだったが、体の熱は少し収まった。だが、背後から炎が近づいてきて、すぐに上がり、逃げた。多くの人が橋や岸から満潮の川に飛び込み、吸い込まれるように流されていった。「ため池に入っていなかったら、私も熱さに耐えられず、飛び込んでいただろう」。そう思うとぞっとした。

 段原(現・広島市南区)近くで、大手町国民学校の同級生に会った。水筒を持っているのを見て、思わず頼み込んだ。「あんた、飲ませて」。同級生はためらわず、水筒を差し出してくれた。ごくごく飲んだ。そのおかげで、気力が戻り、負傷者の収容所になっていた仁保国民学校(同)まで逃げられた。まさに「命の水」だった。

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 原爆投下時、母親のヨシノさんは、正子さんの妹の学童疎開先、吉田町(現・安芸高田市)に行っていた。「あまり長い時間ではなかったですが、青と紫と黄と緑の絵の具を混ぜ合わせたような色の傘のようでした」。広島市方面の空に、キノコ雲を見たという。「広島が燃えたらおおごとじゃと、家でラジオをつけてみました。でも、ジージー言うばっかりで、なんにも聞こえませんでした」

 焼け野原になった市内へ入って被爆。9日に正子さんを見つけ、仁保国民学校から向原町(同)まで大八車で連れ出した。正子さんは右半身が大やけどで、皮膚はむけてぶら下がり、かさぶたにはウジ虫がわいていた。「ひどいけがを見て、いっぺんに地獄に落ちたような気がしました」

 正子さんは何度か危篤状態になったが、懸命の看護で一命を取り留めた。55年ごろ、同窓会で、あの日水筒の水をくれた同級生に再会した。

 同級生は正子さんを見つけ「生きとってくれたの。殺してしまった、とばかり思ってた」と喜んでくれた。原爆投下後、広島には、負傷者に水を飲ませたら死ぬ、とのうわさが広がった。水をあげたことをずっと後悔していた、という。
「私の方こそ、ありがとう。おかげで助かった」と正子さん。生き抜いたことを互いにたたえ、「水の絆」を確かめ合った。

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 母娘で同居を始めて半世紀近い。明治、大正、昭和、平成の4時代を生きたヨシノさんは「今はとても幸せ。食べ物もある」と喜ぶ。日々、世話をする正子さんも「親のおかげで、ここまで生きてこられた。その恩返しをさせてもらっています」。
(岡本玄)