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紙面から from Asahi Shimbun

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聞きたかったこと
路面電車に遺体の山 広島県呉市 片山保博さん  (87)
(2014年9月17日 朝刊)

  写真 原爆投下の翌日、爆心地に入った片山保博さん。「おかあちゃんを戻せ」と叫ぶ子どもたちの声が忘れられないと話す=呉市豊町

 1945(昭和20)年3月から14回にわたる空襲で市街地を焼失した呉市と、それまで本格的な空襲がなく、たった1発の原子爆弾で街が消えた広島市。呉市豊町久比の農業片山保博さん(87)は広海軍工廠(こうしょう)で呉空襲に遭い、原爆が投下された翌日、大竹町(現・大竹市)の海兵団へ行くため広島市中心部に入った。空襲と被爆の生き証人だが、「話しても、実態は分かるもんじゃない」と、これまで体験を語ることはなかった。

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 広海軍工廠は21(大正10)年、海軍の航空機開発などを担い、呉海軍工廠広支廠として開設。2年後に独立した。

 「久比の尋常高等小から広工廠の工員養成所に入った。見習工の修業期間は3年だが、わしらの時は繰り上げで44(昭和19)年10月に卒業。工廠の造機部鋳物工場におった。ドイツに留学した偉い人がいて、原子力の爆弾や水素爆弾の話を聞いたことがある。こんな戦争は負けるぞ、だめじゃいうて聞かされた」

 呉市初の本格的な空襲は45年3月19日。同市編集の「呉市史」によると、米軍機は70〜80機で編隊を組み、呉港に停泊中の艦船を波状攻撃。広工廠も被害を受け、造機部事務所や飛行機格納庫などが全焼した。

 「(米軍機は)はじめはみな呉港の方へ行きよった。ほんで、ひょっこりこっちに来るようになって、こら大事(おおごと)ぞと。すぐ(工場近くの)防空壕(ごう)に逃げ込んだら直撃弾を食ろうた。30〜40人の仲間は大半が死んだ。頭部に重傷を負い、1週間ほど別の壕に寝かされた。その間に、わしも死んだことになっちょった」

 同5月5日は広工廠が攻撃目標になった。片山さんは少し離れた寄宿舎にいて助かった。この空襲で広工廠は壊滅的な被害を受けた。

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 8月6日朝、実家の豊町(大崎下島)に戻って山腹で草刈り作業中、きのこ雲を目撃。翌朝、大竹海兵団に入るため広島市に向かった。

 「広島の手前で汽車から降ろされ、広島駅まで歩き、そこから己斐の方へ向かった。(広島駅近くの猿猴〈えんこう〉川にかかる)大正橋(の欄干)が壊れ、水飲みに行って死んだのか、遺体が堰(せき)みたいになっちょった。被爆した路面電車の真ん中に10人くらいの(遺体の)山ができちょった。ピカッとなったときに、みんなが寄り添ったんかのう。日が暮れると、あちこちの倒壊した家屋から残り火がフーフー、吹きよった」

 「(爆心地付近の)相生橋の欄干で、後ろ手にくくられた外人が死んでいた。捕虜か刑務所におったのが引っ張り出されたんじゃないかのう。年は20歳よりちっと上。被爆死じゃなく、たたかれ、けとばされたんじゃろう」

 森重昭著「原爆で死んだ米兵秘史」によると、広島で被爆死した米兵は推計で12人。広島市編集「広島原爆戦災誌」には、相生橋付近で倒れていた米兵捕虜らの目撃証言が記されている。

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 岩国の航空隊で終戦を迎えた。復員後、静岡県の柑橘(かんきつ)試験場(現・果樹研究センター)で学び、大崎下島でミカン農家を継いだ。被爆後、後遺症に悩まされた。

 「一番先に歯をやられての。内臓も調子悪うなって、広島の赤十字病院(現在は広島赤十字・原爆病院)に行ったら、原爆(の影響)とわかった。子どものころは健康優良児じゃったのに、体をえっと患ったわい」

 65年から85年にかけ、旧豊町議を通算4期務めた。戦争の責任は政治にある、ときっぱりいう。

 「明治政府は議会制民主主義をつくったが、軍が力を持つようになり、その後、議会は機能しちょらんかった。人間社会、みな欲がある。争いはなくならん。民主主義はみんなで決めるんじゃけぇ、みんなが賢うないと成り立たん。戦争を防ぐには、もっと賢うならんと」
(中川正美)