english

ここから本文エリア

紙面から from Asahi Shimbun

この記事の英語ページへ

聞きたかったこと
50年秘し続けた悔悟 島根県松江市 原美男さん  (87)
(2014年10月1日 朝刊)

  写真 被爆体験を元に孫が作ってくれた広島市内の地図を示す原美男さん。手前から爆心地、広島城、祇園の位置が記されている=松江市

写真 出征した18歳の頃の原さん

 島根県の被爆者団体会長を務める原美男さん(87)=松江市在住=は約50年間、被爆者であることを秘してきた。1995年の戦後50年を機に体験を語り始め、今は被爆2世ら次世代が活動を継承できるよう力を注いでいる。「半世紀のブランクを取り戻す途中」という悔悟の歩みを聞いた。

    ■    □    ■

 原爆投下から数日後。焼け付くような日差しの中、爆心地にほど近い基町(現広島市中区)で、4人の兵隊が黙々と遺体を運び出していた。

 18歳だった原さんは焼け跡から赤ん坊を抱えてうつぶせで死んでいる女性を見つけた。2人とも黒こげだったが、ぱっと開かれた子どもの手指は肌色をとどめていた。4人は母子が離れないよう、遺体をそっと戸板の上に載せた。「その一瞬だけ『人間性』を取り戻した気がしました」

 島根県雲南市で7人兄妹の第1子として生まれた。表具師で絵師もしていた父親は早く働いて欲しいと望んだが、「勉強が好きだったので頭を下げて学校に行かせてもらった」。戦況が厳しさを増す中、原さんは師範学校に通って教職を目指した。

    ■    □    ■

 しかし1945年の夏、召集令状が来た。広島城の北にあった陸軍工兵隊に入隊したのは8月2日。原さんは本隊ではなく、爆心地から北へ約4キロ離れた祇園(現安佐南区)の仮兵舎に入った。飛行機のエンジン工場と隣り合い、工場の周囲には目隠しのため数メートルの高さの壁がそびえていた。

 8月6日朝は仮兵舎の講堂で朝食を食べていた。部屋中が黄色い光に包まれた。数秒後。「パーン」という音がした。とっさに顔を両手で押さえ、床に伏せた。「地球が壊れたのではないかと思うほどの音」だった。

 仮兵舎の外へ出た。視界を遮っていた工場の壁は全てなぎ倒され、広島市の中心部が一望できるようになっていた。はるか南に、巨大なキノコ雲が不気味に立ち昇るのが見えた。

 仮兵舎の北東にある太田川の河原に向かった。河原に着くと、南から大群衆が押し寄せてきた。「兵隊さん、助けてくれ」「水を下さい」。着の身着のままで、血まみれの人もいた。頭上には黒い雲が現れ、灰色の雨を降らせた。

 その後、焼け野原になった基町周辺で遺体を運び出す作業などをした。倒壊した家の下敷きになった人、防火水槽に半身を入れたまま亡くなっている人。遺体を戸板に載せて、軍用トラックの荷台に移していく。

 「時には足で押したり、放り上げたりしないと運搬もできない。命令とはいえ、人がしてはならないような扱いをしました」

    ■    □    ■

 故郷に戻ったのは原爆投下から約40日後。復学し、中学校の教諭になった。前後して同じ班にいた戦友たちが相次いで亡くなっていった。「いずれは原爆症で死ぬということへの恐怖心がありました。広島での体験を背負って生きていくことの苦しさも大きかった」
 世間には差別があり、兵隊仲間の中には「補償を受けることを潔しとしない」という空気があった。「意志の弱い男でした」。退職し、69歳まで被爆者であることを隠した。

 戦後50年を迎え、「もう許されるだろう」との思いから、被爆者健康手帳の交付を受けた。被爆者団体の活動にも加わり、地域の小学校で体験も語り始めた。

 2009年から県組織の会長に就き、被爆2世の会員たちを組織の役員に据えるなど、次世代へのバトンタッチに意欲を燃やす。

 「これから、戦争や被爆の体験者がいなくなる『ゼロへの行進』が始まる。私たちの思いを次世代に伝え、つなげていくことに、残された命を使いたい」
 (雨宮徹)