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紙面から from Asahi Shimbun

聞きたかったこと
核に苦しむ命、診続け 埼玉県 肥田舜太郎さん (99)
(2016年2月17日 朝刊)

写真 「被爆医療が生涯の仕事になってしまった」と話す肥田舜太郎さん=埼玉県川口市

 広島で被爆し、被爆医療に70年以上携わってきた医師の肥田舜太郎さん(99)は被爆者を診て、放射能の恐ろしさを伝えてきた。白寿を迎えた今も全国で講演をするなど、精力的に活動する。原動力は何なのか。昨年から入所する埼玉県川口市の介護老人保健施設を訪ね、思いを聴いた。

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 広島市段原町(現・南区)で、銀行員の父の長男として生まれた。建築を学んでいた大学予科生のとき、貧しい家庭の子どもが十分な医療を受けられないことに憤慨し、医師になろうと決意。日本大学専門部医学科などで学び、1944年8月に広島陸軍病院の軍医となった。

 45年8月6日。28歳だった肥田さんは、未明に心臓発作を起こした子どもの往診のために戸坂村(現・広島市東区)にいた。患者の家で仮眠をとり、目を覚ましたのは午前8時過ぎ。再び子どもの診察を始め、腕に注射しようとした瞬間だった。

 「カッと目の前が真っ白に光った」

 強烈な爆風に正面から襲われ10メートルほど吹き飛ばされた。立ち上がり、広島市の方角を眺めると、大きなキノコ雲が見えた。「なんということだ!」。背筋が寒くなるほどの恐怖を感じ、その場に倒れ込んだ。

 陸軍病院の分院があった戸坂村には多くの被爆者が逃れてきた。「血みどろの被爆者が道路や軒先に、足の踏み場もないほど横たわっていた」。続々とやってくる患者を休む間もなく治療した。

 原爆投下から数日がたつと、救援や肉親捜しのために広島に入った人たちが突然、高熱を出して亡くなっていった。後に急性放射線障害だと知ったが、当時は何が起きているのかわからなかった。

 「診る者、診る者がみな、原因もわからないまま死んでいった。患者の力になれず悔しかった」

 この悔しさが被爆者の治療に関わり続ける力につながった。戦後は山口県の国立病院に勤めた後、東京に移った。杉並区や埼玉県行田市で低所得者向けの診療所を開き、放射線障害に苦しむ被爆者の診療も続けた。

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 被爆者の医療や生活の相談にのるため、79年には日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)の原爆被爆者中央相談所の理事長に就いた。助言を受ける機会の少ない地方在住者の相談にものろうと、全国各地を巡った。2009年の退任までに、数千人の被爆者と面談をしたという。

 会って話すと、被爆したことを家族にも話せずにいる被爆者がいた。「差別や疎外の苦しみを、子や孫に負わせたくないという強いを思いを持っていた。戦後数十年たっても被爆者を苦しめる問題の根は深い」。心が痛んだ。

 核兵器廃絶の運動にも尽力した。国連の事務総長に「放射線障害で多くの被爆者が苦しんでいる」と訴え、77年には広島や長崎でNGO主催の被爆問題国際シンポジウムの開催にこぎ着けた。「原爆被害が世界に発信された」と振り返る。その後は欧州各国を訪問。講演もした。

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 取材の途中で語気を強めたのは2011年の福島第一原発事故に話題が移ったときだ。肥田さんは「核エネルギーと人間は共存できない」と原子力発電の危険性を早くから訴えてきた。だが3月11日、事故は起きた。

 事故後、講演依頼が殺到した。「核兵器だろうが、原発事故だろうが、放射線が人にもたらす被害は同じ。原発はエネルギーの問題じゃない。命の問題なんだよ」

 被爆による大きなけがはなく、現在も「体はどこも悪くない」という。

 「被爆の恐ろしさをこの目で見てきた医師にしかわからないことがある。生きている限り、訴え続けなきゃいけない」。二度と同じ惨禍が繰り返されないよう。命あるかぎり、伝え続ける。(泉田洋平)

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