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紙面から from Asahi Shimbun

ナガサキノート

 「ナガサキノート」は、朝日新聞長崎県内版で2008年8月に始まりました。被爆者一人ひとりの人生を、1日に400字ほどの小さな記事で数回から十数回積み重ねて描きます。毎日休むことなく載せ、今も載らない日はありません。記事は再構成し、「ナガサキノート 若手記者が聞く被爆者の物語(2009年)」「祈り ナガサキノート2(2010年)」の2冊の文庫本になりました(いずれも朝日新聞出版刊)。当サイトは、これら文庫版からの収録に加え、その後も紙面で続く「連載から」も紹介しています。ご一読ください。年齢・肩書は新聞掲載時のままです。

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    あこがれのハイヒール     小幡 悦子さん

     車いすに座った小幡悦子さん(79)=長崎市城栄町=が長いスカートをまくり上げると、白く細い右足がくの字に曲がっていた。肉がえぐれた太ももの皮膚は引きつっていた。左足もひざからももにかけて、大きな手術跡がいくつもあった。
     「ズボンは履けないのよ。こんな形じゃ、みんなびっくりしちゃうでしょ」。小幡さんはそう言ってにっこりと笑ったが、私は何も返せなかった。
     03年に起こされた原爆症認定訴訟第1陣の原告の一人。長崎地裁での判決直前の08年6月17日、取材で自宅を訪ねた。 ……

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    火葬された、ふりそで姿の少女 松添 博さん

     2008年8月9日付の朝日新聞長崎県内版に、次のような記事を書いた。
    《被爆死の娘、鎮魂 106歳母が折り鶴 ふりそでの少女像に届く》
     長崎で被爆してふりそで姿で火葬された2人の少女をモチーフにした像に、京都から6羽の折り鶴が届いた。2人のうち福留美奈子さん(当時9)の母、志なさん(106)が鎮魂と平和への祈りを込めて折った。長崎原爆資料館(長崎市)の屋上庭園に立つ像の前で8日、碑前祭があった。……

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    一人芝居「命ありて」     渡辺 司さん

     「ねえねえ、おじいちゃん、話をして」。孫娘にそうせがまれ、60年余り前の夏を語り始める――。
     一人芝居「命ありて」は、そんな風に始まる。舞台に立つのは、長崎市の元教師、渡辺司さん(76)。自身の体験を基に、被爆当時の13歳の自分と現在とを演じる。主な観客は修学旅行で長崎を訪れる中学・高校生だ。毎年観劇する学校もある。あの夏の出来事を、渡辺さんは全身で再現し、孫世代へと伝える。
     原爆投下から50年目の95年に初演し、これまで200回以上、上演した。東京や福岡、長野など県外にも招かれ、観客はのべ5万人を数える。……

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    捨てられた、おすそ分け    米田チヨノさん

     東京の中学校で08年9月中旬、長崎で被爆した米田チヨノさん(81)=横浜市在住=のお話を、3年生と一緒にうかがった。
     背中のやけど、将来を悲観しての自殺未遂、目の前で死んでいった肉親……。米田さんは自らの体験を語っていった。そして、夫の転勤で東京に引っ越して間もないころの出来事に触れた。
     1958年の暮れ、夫の実家から名産のレンコンが送られてきた。早速、近所に配った。どの家も「ありがとうね」と喜んだ。……

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    ブラジルから日本へ    鮫島 義隆さん

     防空壕が並んだ斜面は住宅地になり、被爆者であふれた爆心地周辺にはビルが立ち並んでいた。山の稜線だけが、あのころの面影を残していた。
     ブラジル・サンパウロ州に住む鮫島義隆さん(80)は2006年11月、61年ぶりに長崎市を訪ねた。被爆者健康手帳を県庁で受け取るためだった。
     海外にいる被爆者は長年、日本政府の援護の対象から外されてきた。鮫島さんは地球の裏側で、日本の被爆者援護制度を知らず、「長崎の『な』の字も口に出したことはなかった」。必死で働き、妻と子ども2人を養った。妻に被爆を明かしたのは来日直前だった。妻は驚いた様子だったが、何も言葉にはせず、長崎まで付き添ってくれた。……

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    在韓被爆者     鄭 泰弘さん

     韓国原爆被害者協会釜山支部を2008年12月に訪ね、30人ほどの在韓被爆者と会った。その中で唯一、長崎で被爆したのが鄭泰弘さん(77)だった。
     被爆の翌1946年に韓国に帰国。被爆者健康手帳について知ったのは、半世紀近くたった95年だった。協会を取り上げた新聞記事を見て、連絡先を尋ねて回った。偶然、同じアパートに住んでいた男性が広島の被爆者で、「手帳を申請した方がいい」と協会を紹介してくれた。在韓被爆者の調査や支援をしていた長崎の平野伸人さん(62)と出会った。……

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    巡回診療班     浜里欣一郎さん

    原爆投下からまもない長崎で、巡回診療班を結成し、焼け跡を駆けた医学生たちがいた。
     長崎市立山4丁目の浜里欣一郎さん(84)もその一人。自らも被爆しながら被爆者救護に尽力した医師、永井隆博士(1908―51)の教え子で、博士を顕彰するNPO法人「長崎如己の会」の理事を務める。
     自分たちも原爆で家族を失い、明日の生活もわからない極限状態。そんな中での活動の原動力は何だったのか――。私が尋ねると、浜里さんは「医療人として一人でも多くの命を救いたいという思いが私たちを動かした」と何度も繰り返した。 ……

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    14人の卒業式     三宅レイ子さん

    1945年9月中旬、原子野に焼け残った電柱やバラックの壁に、わら半紙に筆で書かれたビラがはられた。 《城山国民学校のみなさん 九月二十四日午前十時に八幡神社に集まりましょう》
     同校(現・長崎市立城山小学校)の教員だった三宅レイ子さん(82)が同僚と一緒に、爆心地から460メートルで廃墟になった学校周辺にはった。
     たった30枚。だが、それだけの紙を集めるのにも苦労した。 ……

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    命を絶った妹     下平 作江さん

    下平作江さん(73)が被爆語り部を始めて35年になる。主に子どもたちを相手に、1日3、4校を掛け持ちすることもあり、年200回ほどを数える。
     甲状腺機能低下症や腎臓病を患う被爆者の夫、隆敏さん(79)の介護を、長崎市油木町の自宅で続けながらの毎日だ。下平さんも子宮筋腫、慢性肝炎などを患い、手術を繰り返した。それでも「命ある限り伝える」という思いに突き動かされる。 ……

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    原爆投下は遅すぎた   ロナルド・ショルテさん

    「原爆の投下は遅すぎた」。ロナルド・ショルテ(Ronald Scholte)さん(84)は、戦後ずっとそう考えてきた。2009年3月に被爆者健康手帳を取得したが、気持ちは今も変わっていない。
     元オランダ兵。1942年にインドネシアで日本軍の捕虜となり、長崎に送られ、収容所で2年余りを過ごした。過酷な労働を強いられ、健康を損なった仲間が次々と死んだ。日本人から暴力も受けた。そんな苦境からショルテさんを解放したのが、原爆の投下による終戦だった。「私にとって原爆は自由だった。平和のために長崎の市民は犠牲になったと言える」 ……

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    放射能情報のなかった沖縄   真喜志津留子さん

    どうしようもなく体がだるかった。那覇市の真喜志津留子さん(84)は1955年ごろから、原因不明の倦怠感に悩まされた。診察を受けると、「何でもないのに、何で来るのか」と、医師に怒られた。
    長崎で被爆し、数年後、米国統治下の故郷、沖縄に戻った。「原爆のせいじゃないか」と、薄々感じていた。だが、当時、沖縄では、本土と違って、放射能についての情報はほとんどなかった。 ……

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    畑で見た、きのこ雲   長谷崎シゲさん

     1945年8月9日、長谷崎シゲさん(86)は、爆心地から北西に約16キロ、黒崎村上黒崎(現・長崎市上黒崎町)のサツマイモ畑で雑草取りをしていた。
     午前11時過ぎ、ビカッと光った。「どげんて言いようのない光。稲光のだん(どころ)じゃなか」。ドンと激しい音が続いた。「こりゃ何事か来るばい」。長谷崎さんは一緒にいた母と、畑の端にあったツバキの木の下に駆け込み、身をかがめた。しばらくすると、浦上方面できのこ雲がもくもくと上がった。目の前まで迫ってくるように見えた。  ……

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    父子2代、白血病を追う   朝長万左男さん

     自らも被爆者である、長崎大医学部原子爆弾後障害医療研究所(原研)の朝長万左男教授(65)が2009年春、定年退官した。2月17日の最終講義で語った。「私が研究を始めたころは、被爆の影響は今ごろなくなっていると予想されていた。だが、現在も被爆者は白血病を発症している」 ……

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    90歳の語り部   尾畑 正勝さん

     90歳の被爆語り部がいると聞き、訪ねた。尾畑正勝さん。長崎市入船町の家には、たくさんの折り鶴や色紙が飾ってあった。「話を聞いた子どもたちがくれたとですよ」  飽浦尋常高等小学校(現・長崎市立飽浦小学校)を出て、経理学校に1年通った後、三菱造船所で働いていた父の勧めで、1934年に同じ職場で働き始めた。 ……

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    永遠の10秒   崎田 昭夫さん

     永遠の10秒――。  長崎市在住の崎田昭夫さん(79)は原爆が落とされた瞬間を、そのように記憶している。  ベラルーシの医学生3人を迎え、2008年8月7日に開かれた市民交流会。チェルノブイリ原発事故の被曝者でもある3人に請われ、語り始めた。 ……

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    原爆の年のクリスマス   小崎 登明さん

     クリスマスイブの2008年12月24日、長崎市本河内2丁目の聖母の騎士修道院でミサがささげられた。 「原爆の年もクリスマスは豪華だった」。修道士小崎登明さん(80)は手を合わせて祈り、振り返った。戦勝国のポーランド人が作った修道院には、占領軍から物資が特別に与えられていたからだ。 ……

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    世界に向けた被爆証言   元山寿恵子さん

     元山寿恵子さん(78)=長崎市愛宕1丁目=は2008年9月から09年1月まで、国際交流NGO「ピースボート」が主催する地球一周の船旅に出た。長崎や広島の被爆者約100人と若者ら約600人が乗り、訪問先で持ち回りで被爆体験を証言した。 ……