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![]() ![]() 車いすに座った小幡悦子さん(79)=長崎市城栄町=が長いスカートをまくり上げると、白く細い右足がくの字に曲がっていた。肉がえぐれた太ももの皮膚は引きつっていた。左足もひざからももにかけて、大きな手術跡がいくつもあった。 「ズボンは履けないのよ。こんな形じゃ、みんなびっくりしちゃうでしょ」。小幡さんはそう言ってにっこりと笑ったが、私は何も返せなかった。 03年に起こされた原爆症認定訴訟第1陣の原告の一人。長崎地裁での判決直前の08年6月17日、取材で自宅を訪ねた。 3時間ほど、足の傷の原因となった被爆体験を聞いた。ためらいはあったが、足の写真を撮らせてほしいと頼んだ。小幡さんは言った。 「この足が原爆だから……。私が伝えられるのは、足だけだからね」 突然の雨で薄暗くなった部屋で、何度もシャッターを切った。「伝えて下さい」という言葉の重みをかみしめながら。 1941年、太平洋戦争が始まる直前だった。12歳だった小幡さんは長崎市片淵町(現・片淵)3丁目の自宅で、家族がいないのを見計らって、玄関のげた箱を開けた。 2人の姉のハイヒールがあった。黒い大きなリボンの付いた、しゃれたデザイン。小さな両足を入れてみた。「いつか私も履いてみたかね(履いてみたいな)」 だが、戦況の悪化とともに食事にも事欠くようになった。町にあふれたスローガンは〈ぜいたくは敵だ〉〈欲しがりません、勝つまでは〉。ハイヒールは夢のまた夢になった。それでも「戦争が終わって、町が復興して、私もハイヒールで歩いてみたか(歩いてみたい)」と願い続けた。 小さいころは母親にしかられると、両足をわざと踏みならして階段を上った。ゴム跳びをして遊び、郊外の網場や鼠島にバスで海水浴に行き、自由に泳いだ。「もう全部思い出よ」 □ 45年夏、16歳だった小幡さんは女子挺身隊員として長崎市の三菱兵器製作所茂里町工場にいた。巨大なグラインダーで、魚雷の部品の鉄の出っ張りを削るのが日課だった。 8月9日は朝から空襲の警報が鳴り響いた。工場から数百メートル離れた防空壕へ逃げた。何事もなく警報が解除され、「暑か」「遠か」と文句を言いながら、工場2階の作業場へと階段を駆け上がった。「トントン走ったのは、あれが最後」 持ち場についた時だった。赤、黄、紫……。何とも表現できない色の光が瞬いた。目と耳をふさぎ、伏せた。工場が大きく揺れた。 気がつくと、両足を大きな作業台に挟まれ、崩れた床から1階に向けて宙づりになっていた。頭の下を見ると、男の人が2人いた。「助けてください」。引きずり下ろしてもらう時に、右足の肉がえぐれた。痛みは感じなかった。 背負われて外に出た。「何で私が」。言葉が続かなかった。爆心地から1・2キロだった。 助け出された小幡さんは、トラックに乗せられ、長崎市坂本町(現・坂本1丁目)の長崎医科大学(現・長崎大学医学部)をめざした。だが、100メートルも行くと、火の手に阻まれた。 荷台から見た太陽は、真っ赤だった。日差しで焼かれた荷台の熱さに耐えられず、どこかもわからないまま、血の流れる足で地面に降りた。ズブズブッと、泥の中に足を踏み入れたような感触だった。折れた骨が肉に刺さったのだった。 とにかくのどが渇いた。やかんで水を配る人がいた。もらった水は塩水だったが、構わなかった。トラックの陰で日差しを避けた。誰かが運んできた布団に横たわった。 夜、足の向こうに、火花を散らす電信柱が見えた。辺りは重傷者のうめき声、家族を捜す人たちの声で満ちあふれた。痛さで眠れず、このまま死ぬと思った。家に帰り、母に会いたかった。 一夜明け、なお横たわる小幡さんの姿を写した報道写真が残っている。爆心地から約1キロにいたと、後で知った。 □
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