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紙面から from Asahi Shimbun

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ナガサキノート
火葬された、ふりそで姿の少女 松添 博さん (1930年生まれ)
(新聞掲載は2008年8月)

写真 松添 博さん 写真「ふりそでの少女」。松添さんは「いつか絵に」と考えていた

2008年8月9日付の朝日新聞長崎県内版に、次のような記事を書いた。

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《被爆死の娘、鎮魂 106歳母が折り鶴 ふりそでの少女像に届く》

 長崎で被爆してふりそで姿で火葬された2人の少女をモチーフにした像に、京都から6羽の折り鶴が届いた。2人のうち福留美奈子さん(当時9)の母、志なさん(106)が鎮魂と平和への祈りを込めて折った。長崎原爆資料館(長崎市)の屋上庭園に立つ像の前で8日、碑前祭があった。

 京都から「ふりそでの少女像をつくる会」事務局の伊達順子さん(61)ら2人、長崎から、像を作るきっかけとなった「ふりそでの少女」の絵を描いた松添博さん(77)や活水高校の生徒ら18人が参加した。

 像は96年3月31日、資料館の開館前日に除幕された。始まりは松添さんが74年に描いた1枚の絵。原爆投下から10日後、長崎市内の畑で晴れ着姿の少女2人が火葬される光景だ。その後、少女の名前や、志なさんが京都府綾部市にいることがわかった。

 志なさんは当時、夫の仕事の関係で中国・上海におり、美奈子さんを長崎市の親類宅に預けていた。もう一人の少女は、美奈子さんが被爆後に避難した家の近くで亡くなった大島史子さん(当時12)だった。帰国後、美奈子さんが被爆死したことを知った。

 最期の姿を松添さんの絵で知り、「長崎に供養の地蔵を建てたい」との手紙を綾部市立綾部中学校生徒会に送ったのがきっかけで、95年に「ふりそでの少女像をつくる会」ができた。全国から寄せられた募金で像が建てられた。

 制作者の余江勝彦さん(67)=京都府舞鶴市=とともに、伊達さんは長崎を毎年訪れ、像の清掃をしてきた。04年からは長崎市の活水高校平和学習部の生徒らが清掃に加わり、05年からは碑前祭として、折り鶴をささげている。

 伊達さんは週に1回は、志なさんが暮らす綾部市内の福祉施設を訪ねている。志なさんは像の除幕式の時は長崎を訪れたが、その後は来ていない。耳が遠くなり、体の自由がきかないが、6月ごろから一緒に折り鶴を折ったという。

 5日、伊達さんは志なさんを訪ねた。志なさんの口癖は「戦争はあかん。平和が一番」。伊達さんが「おばあちゃんの思いを伝えてくるよ」と言うと、手を握りしめ、ほおに押しつけて言った。「よろしくね。ありがとう」

 伊達さんは今後も毎年8月9日を前に長崎を訪れるつもりだ。「『私たちのような目に遭う人を生まないためにも、世界中から核兵器をなくしてほしい』。そんな2人の少女と志なさんの思いが、私たちを突き動かしているんです」

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 記事の中で紹介した松添さんは、長崎平和推進協会の継承部会長。「長崎原爆の日」に長崎西高校で被爆体験などを話すと聞き、取材をしようと08年7月下旬、長崎市滑石1丁目の家を訪ねた。長崎西高は、松添さんが通った旧制の県立瓊浦中学校(現在の瓊浦高校とは別の学校)の跡地に建ち、私の母校でもある。どんな話をするのか関心があった。

 被爆直後の現地の写真や資料を見せながら、丁寧な口調で語ってくれた。そして、2人の少女を描いた絵本も見せてもらった。晴れ着姿の2人が並んで寝かされ、今まさに火葬されようとしている――。長崎原爆資料館にはこの絵が展示され、被爆当時の風景を描いた巨大な絵2枚も飾られている。

「偶然、通りかかってね。いつか絵に残さんといかんな、と」。何度か通ううちに、松添さんと少女を巡る数々の物語を聞いた。

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 1945年8月9日は、朝から空襲警報が鳴った。

 松添さんは当時、瓊浦中3年生。長崎市茂里町の三菱製鋼所に動員されていた。作業を中断し、汽車で北郊の道ノ尾駅に避難した。駅は、松添さんら学生がよくたむろする場だった。

 しばらくして仲の良かった一つ上の先輩が「工場に戻ろう」。だが、松添さんは「僕は戻らん」。

 理由があった。8月1日昼、やはり空襲警報が鳴った。それまでにも鳴ったことがあったが、被害はなかった。「いちいち避難してどうする」。松添さんら2、3人は避難せず、工場の地下室に入った。

 ところが、何十機という爆音が聞こえたかと思うと、次々に爆弾が落とされた。バリバリバリ、ボカーン。地面が揺れた。機銃で肩を撃たれた工員が泣きながら地下室に入ってきた。松添さんは目と耳を押さえ、がたがたと震えていた。「もうあげん(あんな)体験はしたくない」と、家をめざした。

 工場は爆心地から1キロ余り。一人で戻った先輩は被爆して大やけどを負い、数日後に亡くなった。

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「ブーン」という音が聞こえた。

 8月9日午前11時ごろ、松添さんは空を見上げた。太陽がまぶしく、右手をかざして機影を捜したが見えなかった。爆心地から約3・8キロ北の長崎市滑石の自宅庭。音は、市の中心部に向かっていった。

 直後、目の前でカメラのフラッシュがたかれたように、パーンと光った。「あちー」と思い、両手で顔を隠した。「焼夷弾が間違って、こんな田舎に落とされたのか」と思い、走って自宅裏の防空壕に向かった。だが、気付いたら、4、5メートル離れた竹山に倒れていた。爆風で飛ばされたのだ。