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紙面から from Asahi Shimbun

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ナガサキノート
一人芝居「命ありて」 渡辺 司さん (1932年生まれ)
(新聞掲載は2008年9月)

写真 シンプルな舞台。見る者の想像力に訴えかける  

 「ねえねえ、おじいちゃん、話をして」。孫娘にそうせがまれ、60年余り前の夏を語り始める――。

 一人芝居「命ありて」は、そんな風に始まる。舞台に立つのは、長崎市の元教師、渡辺司さん(76)。自身の体験を基に、被爆当時の13歳の自分と現在とを演じる。主な観客は修学旅行で長崎を訪れる中学・高校生だ。毎年観劇する学校もある。あの夏の出来事を、渡辺さんは全身で再現し、孫世代へと伝える。

 原爆投下から50年目の95年に初演し、これまで200回以上、上演した。東京や福岡、長野など県外にも招かれ、観客はのべ5万人を数える。

 渡辺さんの日課は、家から約1キロの公園への夕方の散歩だ。そこからは、爆心地の東側にそびえる金比羅山が遠くに見える。

 公演が近づくと、公園で一人、イメージトレーニングをする。1945年8月9日、火の海となった長崎を、あの山からぼうぜんと眺めるしかなかったことを思い出しながら。

     □

 渡辺さんの実家は、ちゃんぽんや皿うどんを出す食堂を営んでいた。長崎市銭座町にあり、ご飯時には近くの工場の人たちが集った。

 だが、44年ごろになると、戦況悪化で食材が思うように手に入らなくなった。父が出征し、状況の厳しさに拍車をかけた。

 45年夏、旧制の県立瓊浦中学校2年生だった渡辺さんは学徒報国隊員として、長崎駅裏にあった日本通運に動員されていた。8月9日も午前10時過ぎ、同級生3人が家まで迎えに来た。

「まだ行かんでよかやっか(行かなくてもいいではないか)」。3人をがらんとした食堂に招き入れた。朝からの空襲警報は解除されていた。いすに座ったり、傍らのソファに寝ころんだりして雑談に興じていた。

 そんな時、普段とは違う飛行機の爆音を聞いた。渡辺さんが「見に行こう」。同級生と玄関から足を踏み出そうとした瞬間だった。

 ピカッ。「伏せろ」。とっさに叫び、屋内に走り込んだ。がれきが襲ってくるのを感じた。

 どれぐらい時間がたったのか、気がつくと静けさと暗闇の中にいた。四つんばいになって、崩れ落ちた屋根の下からはい出した。空を見上げると、辺り一面にちりが舞い、太陽に赤い輪がかかったように見えた。

 渡辺さんが被爆した自宅は、爆心地から約1・6キロの距離にあった。

 がれきの中から同級生3人を助け出した。2階にいたはずの母と親類の2歳の女の子を探すと、足元からかすれた声がした。「つかさー、つかさー」。幼子を抱いた母の腰に材木が2本、覆いかぶさっていた。同級生と取り除き、引っ張り上げた。

 防空壕へ急ぐ途中、後輩が煙突の下敷きになっていた。動かそうとしたがどうすることもできない。まもなく、息絶えたのがわかった。

 周辺から火の手が上がり始めた。防空壕にたどり着いたが、近くのガスタンクが燃えだした。逃げ場を求め、金比羅山に登った。下を眺めると、長崎駅から浦上一帯は火の海だった。

 自宅が崩壊したため、渡辺さんは母と共に、国見町(現・長崎県雲仙市)の多比良にあった親類宅に身を寄せた。

 突然、激しい下痢と高熱に襲われたのは、8月19日の朝だった。水さえ、のどを通らなくなった。

 病院を3カ所回ったが、どこも同じような症状の人たちであふれかえり、原因がわからないまま、息絶える人が多かった。渡辺さんは、ろくに診察をしてもらえず、1、2番目の病院では「ピカドン病なので、2~3日以内に死ぬ」。3番目では「今夜が山だ」と言い渡された。

「死んでなるものか」と、母のもとに帰った。

 翌日、まだ生きていることを確かめた渡辺さんは、近くの女性医師を訪ねた。下痢や高熱はあるものの、脱毛や皮膚の斑点などの症状がないことを説明し、きちんと診察してほしいと訴えた。医師は、のどや歯茎がひどく化膿しているのを見つけると、器具で取り除いた。大量のうみが出た。  その夜、やっと水が飲めるようになった。

     □

「もうピカの話はやめよう」。原爆投下から数カ月。再開した学校で、渡辺さんたちは約束した。

 約350人いた同級生のうち、100人近くが亡くなっていた。顔を合わせる度に「あそこであいつが死んでいた」「うめき声が上がっていた」という話になった。

「俺たちには未来がある。これからの日本ば作らんばいかん」。少年たちは約束によって、心に焼き付いた光景を消し去ろうとした。渡辺さんも、できるだけ振り返らず、戦後を教師として生きた。

 半世紀近くたったころ、転機が訪れる。原爆について児童に断片的に話すと、「その先は」とせがまれた。退職直前の92年2月、初めて本格的な講話をした。退職後、語り部でつくる長崎平和推進協会継承部会に入り、修学旅行生らに語り始めた。

 だが、どう語っても何かが違う。あの死臭、惨状を、より臨場感を持って伝えられないか――。頭に浮かんだのが、新制高校時代から続けてきた芝居だった。