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![]() ![]() 東京の中学校で08年9月中旬、長崎で被爆した米田チヨノさん(81)=横浜市在住=のお話を、3年生と一緒にうかがった。 背中のやけど、将来を悲観しての自殺未遂、目の前で死んでいった肉親……。米田さんは自らの体験を語っていった。そして、夫の転勤で東京に引っ越して間もないころの出来事に触れた。 1958年の暮れ、夫の実家から名産のレンコンが送られてきた。早速、近所に配った。どの家も「ありがとうね」と喜んだ。 翌朝、ゴミを出しに行くと、レンコンがすべて捨てられていた。近所の男の子が自宅にやってきた。「おばさんももらっただろ。あれ食べると原爆がうつるからだめだよ。死ぬから」。近所に被爆者だと話したこともなく、ただただ驚いた。「原爆に関係ないレンコンだから。原爆もうつらないから」。そう言うのが精いっぱいだった。 以来、長崎からミカンやかまぼこが届いても、二度と配ることはなかった。 □ 米田さんは被爆当時、18歳。常清女学校を卒業し、長崎市城山町の洋裁教室に通っていた。 45年8月9日は朝から警戒警報と空襲警報が鳴ったため、教室には行かず、妹の春代さん、弟の正二さんと油木町の自宅の裏山へ行った。近くの畑に来ていた、小学校で同級だった友達とその母親の3人で、あぜ道に腰をかけ、おしゃべりをしていた。爆心地から1キロ余り。午前11時ごろのことだ。 原爆が落とされた瞬間のことは記憶がない。光も音も何も感じなかった。気がついた時は、10メートル以上離れた畑に倒れていた。「南無阿弥陀仏」と繰り返し唱える友達の大声で目が覚めた。その直後、米田さんは、上空で風船がはじけるようなパチンという音を聞き、友達に「動いたらダメよ。敵機に撃たれるから」と叫んだ。 しばらくじっとしていると、今度は線香花火のような小さな火の玉が無数に、シャシャシャーと音を立て、雨のように降り注いだ。 自宅裏の山林に入っていた妹と弟が泣きながら出てきた。米田さんが駆け寄ると、妹が言った。「姉ちゃん、手から血の出とるよ」。右手首からは骨が飛び出ていた。だが、「痛いとも、かゆいとも思わなかった」。 後ろにいた友達も言った。「あんた、服がなあんもなかよ。背中が真っ黒に焼けとるよ」。けがをしていない左手を背中に回すと、焦げた皮がべろっとはがれて左手にくっついた。 米田さんはこの日、薄手のブラウスを着ていた。前日に配給を受け、うれしくて山にまで着て行ったのだ。「今でも下着のシュミーズのひもの線が残ってるんですよ」。そう言って、両肩にかけてケロイドの残る背中を見せてくれた。「今はそうでもないけど、戦後、自分の背中の皮膚が紫色に盛り上がっているのを見て卒倒しそうになった」 周囲では山の木が燃え始めた。近くの溝に隠れた。畑に座り込む人たちの姿が遠くに見えた。泣いているのかわめいているのかわからなかった。 薄暗くなってから、米田さんは弟妹とともに家に戻った。家はつぶれていて、父や集まった親族らと共に防空壕に避難した。 その夜、親類の母子4人が逃げてきた。母親は「草取りをしていたら、田んぼの水が沸いた」と話し、全身にやけどを負っていた。3人の男の子も重傷で、「水ば飲みたか」とうめいた。母親が「誰か水ばやってくれんね」と訴えたが、米田さんの父が叫んだ。「水ばやったら死ぬけん、やるな」 翌日、3人の子どもは息絶えた。皮がずるずるとむけて抱えられず、ぼろきれで包んで運んだ。「膨らませた真っ黒いポリ袋に手と足が付いているみたいだった」。米田さんの記憶だ。 3人は体の大きい順に並べられ「仲良う天国で暮らせよ」と、それぞれの手を結び合わされた。水に浸した布で3人の口を湿しながら、父は言った。「おじちゃんば許してくれ。殺しとうなかけん、水ばやらんやったとやけんな。いっぱい飲ませてやるけん」。父の泣く姿を初めて見た。 □ 被爆翌日、米田さんは右手が腫れ、触れると跳び上がるほど痛かった。やけどした背中も痛み始め、顔も腫れ上がった。頭をかくと、毛がぼそっと抜け、髪はなくなった。 両親はそのころ、「今日も生きていて良かった。死んだらチヨノ地蔵さんと戒名を付けて送り出そう」と拝んでいた、と後で妹に聞いた。 5日ほどして米田さんは、いとこらに代わる代わるおんぶされ、長崎医科大学付属病院(現・長崎大学病院)に運ばれた。医師は右手を見るなり、「手首から切り落とさんと死んでしまう」。付き添った父は「女の子やけん、指だけはつけとってくれまっせ」。医師は「今なら手首だけでいいが、下手したら肩から落とさんといかん」と続けたが、父は土下座して頼み込み、切断は免れた。 医大生のいとこが毎朝、消毒に来てくれた。1カ月たったころ、友人の医大生が来た。いとこは被爆者救護に奔走したが、突然体調を崩し、「チヨノさんを頼む」と言い残して死んだという。22歳だった。 原爆投下から約1カ月後、米田さんは、骨折した右手首の添え木を外した。骨がぼっこりと盛り上がり、まっすぐに伸びなかった。 「こんな体になってしまった。もう誰とも幸せな結婚は出来ない」。将来を悲観し、両親が寝静まったのを見計らって、線路に向かった。 レールに頭を付けて寝ころんだ。ものすごい振動と音。怖くなって逃げた。数日後、もう一度死のうとしたが、やはり死ねなかった。さらに数日後、今度はレールに腹を当て、うつぶせに横たわった。 列車が近づいてきた。死が近づいてきた。次の瞬間、体がバッと線路から引きはがされた。父に抱きかかえられていた。直後、列車が目の前を通り過ぎた。 父は米田さんのほっぺをペタペタたたき、抱きしめた。被爆直後に亡くなった米田さんの姉たちのことに触れ、「死にとうなかとに死んでいったとぞ。頼むけん生きてくれ」 米田さんは振り返る。「当時は死ぬことしか考えてなかった。父が救ってくれた」 □
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