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![]() ![]() 防空壕が並んだ斜面は住宅地になり、被爆者であふれた爆心地周辺にはビルが立ち並んでいた。山の稜線だけが、あのころの面影を残していた。 ブラジル・サンパウロ州に住む鮫島義隆さん(80)は2006年11月、61年ぶりに長崎市を訪ねた。被爆者健康手帳を県庁で受け取るためだった。 海外にいる被爆者は長年、日本政府の援護の対象から外されてきた。鮫島さんは地球の裏側で、日本の被爆者援護制度を知らず、「長崎の『な』の字も口に出したことはなかった」。必死で働き、妻と子ども2人を養った。妻に被爆を明かしたのは来日直前だった。妻は驚いた様子だったが、何も言葉にはせず、長崎まで付き添ってくれた。 鮫島さんは海兵団にいた1945年8月10日、被爆者救護のために長崎入りした。「助かる者だけを」と命じられ、うめき声に十分に応えられないまま、数百人を見送った。2日ほどで長崎を離れたが、その体験が鮫島さんを苦しめ続けることになる。 □ 鮫島さんは1928年12月、ブラジルで生まれた。 父は鹿児島県の坊津(現・南さつま市)出身で、20歳を過ぎた1909年にペルーへ移民として渡った。船大工として生計を立てようとしたが、賃金が安く、ブラジルに移った。やはり移民だった母と結婚し、コーヒー栽培で家族を養った。 鮫島さんは日本人学校に通った。11歳のころ、学校の閉鎖が取りざたされるようになった。家族で相談し、鮫島さんは父の故郷にひと足早く向かうことにした。家族は3年後に帰国する約束だった。だが、第2次大戦の戦況悪化で戻れなくなった。 坊津では尋常小学校に通った。5年の学級に入るはずが、周囲に追いつけず、3年生として通った。 □ 45年8月9日、佐世保の針尾海兵団に配属されていた鮫島さんは長崎周辺海域の機雷を除去する任務で、船に乗り込んだ。午前11時に長崎港に入る予定だった。ところが、港近くまで来たところで、機関が故障し、沖に流された。この偶然によって直爆を免れた。 11時2分、長崎の街の方角に、きのこ雲が上がったのが見えた。まもなく機関が復旧し、港に向かった。だが、岸壁の建物は燃えていて近づけない。針尾に引き返すことになった。 翌日、救護のため長崎へ入るよう命じられた。周りの兵士たちは誰も行きたがらなかったため、16歳だった鮫島さんら若手が行かされたようだ。 衛生兵と同年兵ら十数人で軍用トラックに乗り、市内に到着したのは、10日午前8時ごろと記憶している。まず、長崎大学近くの防空壕に行った。そこに横たわる人たちは目も向けられないほどだった。毛布にくるみ、荷台に積もうとした。だが、皮膚がむけてしまうのか、ひどく痛がった。成人の男は少なく、女性や子どもばかりが目立った。
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