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紙面から from Asahi Shimbun

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ナガサキノート
在韓被爆者 鄭 泰弘さん (1931年生まれ)
(新聞掲載は2009年2月)

写真 鄭 泰弘さん

 韓国原爆被害者協会釜山支部を2008年12月に訪ね、30人ほどの在韓被爆者と会った。その中で唯一、長崎で被爆したのが鄭泰弘さん(77)だった。

 被爆の翌1946年に韓国に帰国。被爆者健康手帳について知ったのは、半世紀近くたった95年だった。協会を取り上げた新聞記事を見て、連絡先を尋ねて回った。偶然、同じアパートに住んでいた男性が広島の被爆者で、「手帳を申請した方がいい」と協会を紹介してくれた。在韓被爆者の調査や支援をしていた長崎の平野伸人さん(62)と出会った。

 長崎で被爆した家族7人のうち、48年に当時8歳だった末弟が原因も分からずに亡くなった。53年には父が、その翌年には母も帰らぬ人となった。母は髪が抜け、雨が降ると「全身が痛い」と訴え、夜も眠れなかった。父も体調が悪かったが、経済的に苦しく、病院に行けなかった。それでも「原爆の犠牲になったのは、私だけじゃない」と、父が恨み言を口にしたことは一度もなかった。

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 鄭さんは長崎市で生まれた。父の尚道さんは当時、魚の仲買人をしていた。

 稲佐2丁目(現在の弁天町付近)の長屋で育った。「大田泰弘」という日本名を名乗り、家での会話も日本語。稲佐国民学校(現・長崎市立稲佐小学校)で学んだが、「朝鮮出身は自分たち一家だけだったと思う。でも、いじめられたりしたことは全くなかった」。卒業後、旧制瓊浦中学の試験に落ち、1年浪人して、現在の活水中学・高校(長崎市宝栄町)付近にあった旧制鎮西学院中学(現・鎮西学院高校)に通った。

 45年8月9日は警戒警報、空襲警報が鳴ったため、学校に行かず、爆心地から約2キロの家にいた。2歳下の弟と相撲を取っていると、ウォウォウォと、B29の爆音が聞こえた。庭に出ると、強烈な太陽の光で機体が白く見えた。そこから白い落下傘が落ちてきた。危険は感じなかったが、「何か落ちてきた」と思い、家に入った。と同時に、台所の窓がバーッと光り、オレンジ色の光が目の前に迫ってきた。次の瞬間、爆風で吹き飛ばされた。柱に左ひじを打ち付け、7、8センチ切れるけがをした。

 鄭さんの自宅は、原爆で2階部分がつぶされた。両親は屋根に干していた材木を下ろす作業をしていて、顔や手に大やけどを負った。夜になり、稲佐の国際墓地近くにあった大きな防空壕に避難した。市内が炎に包まれていた。たった一発の爆弾で街中が焼けているのが不思議に思えた。

 2、3日して、鄭さんは両親と兄夫婦、弟2人の7人で、2時間ほど北に歩いた山中に逃げた。真っ黒に焼けた遺体を何体も見た。だが、かわいそうとも思わなかった。「あの状況は経験した人でないとわからない」。途中で見かけた路面電車のレールが反り上がっていたのが、印象に残っている。