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紙面から from Asahi Shimbun

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ナガサキノート
巡回診療班 浜里欣一郎さん (1924年生まれ)
(新聞掲載は2008年8月)

写真 浜里欣一郎さん

 話は原爆投下より数年前にさかのぼる。

 浜里さんが医専に在学中、同級生2人がヨットで沖へ出て行方不明になった。それを知り、「みんなで捜しに行こう」。

 授業を欠席すると退学になる。それでも約60人の同級生は誰一人、反対しなかった。学年総代の浜里さんらが主任教授に掛け合った。教授は「よし、行ってこい」。全員で海岸を3日間歩き回った。

 残念ながら、2人は1週間後、遺体で見つかった。だが、軍事教練で「いかに多くの敵を殺すか」と教えられた時代でも「命を大切にする」という思いを医学生たちは共有していた。その思いと団結力が、原爆投下直後の巡回診療につながった。

 実は、浜里さんは電気工学系の大学が第一志望だったが、「自宅に近い」との理由で医専を選んだ。

 医学生だったため戦地には送られず、軍医訓練で長崎を離れていたため直爆も免れた。運命だと思った。「だから、命ある限り、戦争の悲惨さを語り続けるのが使命だと感じています」

     □

 45年秋、医大で原爆犠牲者の慰霊祭が開かれることになった。だが、構内にはまだ遺骨が散乱していた。「遺族が見たらどんなに悲しむか」。浜里さんは同級生と、遺骨を集めた。

 原爆投下時に1、2年生が授業を受けていた基礎教室では、頭蓋骨がずらりと並んで見つかった。「これだけの若い命が奪われたのか」

 大学を見渡せる裏山に慰霊碑を建てることになった。原爆投下以前、虞美人草が一面に咲き誇っていたことから「グビロが丘」と呼ばれていた。医大の敷石に、折れたクギで「友此処に眠る」と半日がかりで彫り、置いた。

 浜里さんは卒業後、米国が設置した原爆傷害調査委員会(ABCC)で働かないかと誘われた。だが、「そんな気分になれない」と断った。

 丘では1980年まで毎夏、慰霊祭が開かれ、今も会場を長崎大医学部に移して続けられている。07年秋には、医学生たちが先輩を悼み、丘に虞美人草を植えた。

(貞国聖子記者 1981年生まれ)