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紙面から from Asahi Shimbun

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ナガサキノート
巡回診療班 浜里欣一郎さん (1924年生まれ)
(新聞掲載は2008年8月)

写真 浜里欣一郎さん

 原爆投下からまもない長崎で、巡回診療班を結成し、焼け跡を駆けた医学生たちがいた。

 長崎市立山4丁目の浜里欣一郎さん(84)もその一人。自らも被爆しながら被爆者救護に尽力した医師、永井隆博士(1908―51)の教え子で、博士を顕彰するNPO法人「長崎如己の会」の理事を務める。

 自分たちも原爆で家族を失い、明日の生活もわからない極限状態。そんな中での活動の原動力は何だったのか――。私が尋ねると、浜里さんは「医療人として一人でも多くの命を救いたいという思いが私たちを動かした」と何度も繰り返した。

 浜里さんは、長崎医科大学付属医学専門部で学んだ。同大は現在の長崎大学医学部。軍医を養成していた医学専門部(医専)は1947年、連合国軍総司令部(GHQ)により廃校とされている。

 45年春、3年で仮卒業となり、軍医として戦地へ行く訓練を受けるために山形へ。そこで敗戦を迎えた。

     □

 原爆投下から14日後の45年8月23日、浜里さんは山形から長崎に復員した。ベージュの軍服に編み上げの軍靴姿で、爆心地に近い浦上駅に降り立った。

「真空管の中にいるようだ」。街から空気がなくなったような不思議な感覚にとらわれた。

 列車で長崎に戻る途中、たくさんの焼け野原を見てきた。そこには人々が懸命に生活する姿があった。原爆投下直後の広島も通過したが、駅は包帯を巻いた人であふれていた。

 ところが、長崎の街は恐ろしいほど人も音も色も消え去っていた。店で物を売り買いする声、荷車や自転車の音、セミの鳴き声……、すべてが無くなっていた。駅前に一筋の道がわずかに残っていたが、人は誰もいない。山に緑はなく、一切が灰色になっていた。

 ふと遠くに目をやると、駅からは見えるはずのない医大の建物がくっきり見えた。影のように真っ黒だった。

 浜里さんは、すぐに自宅をめざした。

 自宅は爆心地から約200メートル、現在の長崎原爆資料館(長崎市平野町)のあたりにあった。建物も、庭の大きなセンダンの木も跡形もなかった。隣の家の焼け残った水槽タンクに父の「道ノ尾駅へ逃げています」という伝言が残されていた。長姉も難を逃れていた。だが、原爆投下時に家にいたであろう母と弟はついに見つからないままだ。

 数日後、医大で、復員してきた同級生たちと会った。浜里さんの学年は軍医の訓練のために長崎を出ていて、助かった人が比較的多かった。だが、爆心地から約800メートルにあった医大は学生・教職員計約900人を失い、壊滅状態だった。

 それでも、仲間たちと「医療人として何かせねば」。救護所は開かれていたが、そこまでの道はがれきで埋まり、患者を乗せた荷馬車や車が通れる状態ではなかった。「救護所に来られない人のため、巡回診療をしよう」

 8月下旬、浜里さんらは巡回診療班を結成した。医学生8人、看護師4人。長崎市浜町の学生寮を拠点に、がれきをよじ登り、はいつくばりながら診療に向かった。

 まだ市内の地面は原爆の熱を帯びていた。復員してきた医学生は底の厚い軍靴でやり過ごせたが、看護師は靴底の薄い運動靴しかなかった。

 医療器具も不足していた。医大の焼け跡で掘り出したハサミやメスは焦げていて使えなかった。

 薬もなかった。復員の際にわずかに持たされたものを、みんなで出し合ったが、すぐに底をついた。ジャガイモをすり下ろしたものを軟膏代わりにやけどに塗ったり、柿の葉をせんじた液体を傷口につけたりした。

 それでも、被爆者は喜んでくれた。天気が悪くて訪ねるのが遅れた日は、被爆者の家族が何時間も玄関先で待ってくれていた。浜里さんらが着くと、「今日はもう来ないかと思っていた。来てくれてありがとう」と泣かれた。

     □

 原爆投下から約1カ月後、浜里さんは巡回診療を続けるうち、被爆者の症状が白血球と関係しているのではないかと気づいた。

 医大の焼け跡から顕微鏡を掘り出し、拠点としていた学生寮に「血液算定をします」と張り紙をした。一日十数人が訪ねてきた。この検査結果は資料として今も長崎大学に残っている。

 ある日、米兵3人が寮に来た。原爆の残留放射能の影響を心配し、「血液を見てくれ」という。

 巡回中の浜里さんに代わり、同級生らが検査した。同級生らも原爆で家族や親類を亡くしている。後で話を聞き、浜里さんは「コンチクショウ。原爆を落としておいて、何か」。患者を差別してはいけないと思いながら、悔しさを隠せなかった。

 爆心地付近に巡回に行くと、なぜかいつも便意を催した。歯茎は腫れ、出血した。診療班の仲間も同じだった。11月ごろには高熱と下痢に襲われた。「あれも残留放射能の影響だったのか」。後にそう考えたが、この時は思いもよらなかった。

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