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紙面から from Asahi Shimbun

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ナガサキノート
14人の卒業式 三宅レイ子さん (1926年生まれ)
(新聞掲載は2008年10月)

写真 城山国民学校の被爆について語る三宅レイ子さん

1945年9月中旬、原子野に焼け残った電柱やバラックの壁に、わら半紙に筆で書かれたビラがはられた。

《城山国民学校のみなさん 九月二十四日午前十時に八幡神社に集まりましょう》

 同校(現・長崎市立城山小学校)の教員だった三宅レイ子さん(82)が同僚と一緒に、爆心地から460メートルで廃墟になった学校周辺にはった。

 たった30枚。だが、それだけの紙を集めるのにも苦労した。

「焼け尽くされたんです。何もかんも燃えた」

 原爆は同校の児童約1400人の命を奪った。今も、亡くなった正確な人数は分かっていない。同僚28人も原爆で亡くなった。

 生かされた教師の使命は、生き残った児童たちに教育を与えることだった。「私は、本当は原爆で死んでいるはずだった」。だが、二つの言葉が岐路になり、三宅さんは生き延びた。

     □

 45年8月8日、三宅さんら城山国民学校の教員たちは、朝から長与村(現・長崎県西彼杵郡長与町)の田んぼへ草取りに出かけた。子どもたちに少しでも米を食べさせたいと、学校が2反ほど借りていた。

 午後、三宅さんは作業を終えて帰ろうとして、着替えを学校に置いてきたことを思い出した。同僚の自転車の荷台に乗せてもらい、取りに戻った。

 学校に着くと、青年団が50枚もの畳を運び込んでいた。若い男性のほとんどが兵隊に取られていた当時、学校では4人しかいない男性教員が交代で泊まり込み、御真影(天皇の肖像写真)と教育勅語、そして校舎が空襲で焼け落ちることがないように、寝ずの番をしていた。「宿直が男ばかりでは大変だ」という話になり、女性教員のために畳を購入したのだった。

 草取りで疲れた体で、畳運びを手伝った。へとへとになった様子を見た男性教員が声をかけた。「明日は午後から出てこんね。校長先生には言っておくけん」。この言葉が一つ目の岐路になった。

 8月9日、三宅さんは「午後からの出勤でよい」と言われていたが、午前10時までには学校に行こうと考えていた。けれども、この日ばかりは起きられなかった。

 しばらくすると、ラジオが伝えた。「米軍機2機が長崎上空に向かっている」

 なぜだかわからないが、ふと、その飛行機の姿を見てみたいと思った。縁側に出て、稲佐町から浦上の方角を見た。山の上空に小さな影が二つ見えた。「あれかもしれん」と思った時、姉が声を上げた。「レイ子ちゃん、敵機やかね」。二つ目の岐路となる言葉だった。

 逃げようと、振り返って数メートル進んだところで、背中が熱くなった。柱の陰に目と耳を押さえて伏せると、熱線と爆風が体の上を通り過ぎた。

 静かになって起きあがると、家の中はめちゃめちゃだ。天井はめくれ、畳は浮いていた。腕や顔にはガラスの破片が突き刺さっていた。引き抜くと、血がプッと噴き出した。全部で14個あった。

 三宅さんは泣きそうになりながら自宅(爆心地から約1・8キロ)の玄関を出た。さっきまで夏草が青々と茂っていた浦上は、砂漠のようになっていた。

 逃げ惑う人たちの間に「米兵が上陸してくる。女子どもはさらわれる」といううわさが流れた。三宅さんは稲佐山へ避難した。

 急な坂道を登り切れずにいると、すっと手が伸びてきた。捕虜になっていた米兵やオランダ兵、英兵の一団だった。彼らも被爆し、同じように山へ避難する途中だった。腕や顔にけがをしている人もいた。怖いはずの米兵が優しかった。三宅さんを助けると、何も言わずに山へ逃げていった。

 街は燃え、夜になっても明るかった。暗い空から爆音が聞こえ、ビラが降ってきた。「日本国民に告ぐ」との書き出しで、米国が原爆を開発し、日本が戦争を止めなければ、それを使って戦争を終わらせるといった内容だった。米軍機がまいたのだった。

 戦争に勝つと信じ、子どもたちにもそう教えてきた。全身の力が抜けた。

 翌日早朝、三宅さんは稲佐山から下り、城山国民学校に向かった。

 浦上川に沿って歩いた。顔の皮がべろりとむけた女性がいた。髪の毛はちぢれ、指先からは腕の皮が垂れ下がり、全身がむき出しになった肉で真っ赤だった。橋の下には、ひっくり返った6頭の馬が流れてきた。腹が裂け、内臓が飛び出していた。

 川に下りる石段には、やけどで黒ずんだ人々が並んでいた。子どもからお年寄りまで、みんなが「水、水」とうめいていた。先頭の人が手で川の水をすくって口に含むと、二度と頭を上げることはなかった。そのまま川に落ち、流されていった。次の人も、またその次の人も、水を飲んでは川に流された。その様子をしばらく見つめていた。

 40分ほど歩いて学校に着いた。しゃれた丸い窓の鉄筋コンクリート3階建て校舎は当時「九州一」と言われていた。それが壁だけになっていた。職員室に入ると、机もいすも何もなかった。校長室からは「助けてくれ」と、うめき声が聞こえた。

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