ここから本文エリア
![]() ![]() 原爆投下から数週間後の夕暮れ、少女の歌声が長崎市郊外の三重村(現・同市三重町)に響いた。 ♪泣くな妹よ、妹よ泣くな ディック・ミネが歌って流行した「人生の並木路」(1937年、佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲)。歌詞の「妹」を、子守をする赤ん坊の名「勇」に替えていた。一言一言はっきりと歌う元気な声だった。 下平さんは、歌声が聞こえると必ず窓を開けて顔を出し、少女を家に招き入れた。声の主は、遼子さんだった。 2人は8月のうちに親類宅に別々に引き取られた。だが、遼子さんはいつも「姉ちゃんと一緒に住みたい」とぐずった。毎日のように居候先の子を背負い、下平さんが身を寄せていた家まで5分の道のりを歩いてきた。家に近づくと、扉をたたく代わりに、ひときわ大きな声で歌った。 45年11月、城山国民学校近くに建てたバラック小屋で、下平さんは父と遼子さん、おいと暮らし始めた。屋根は、原爆で焼けた赤いトタンで、周囲から「あかがね御殿」と呼ばれた。中はトタン板で仕切られ、5世帯が暮らしていた。1家族分の空間は3畳ほど。食べるものもなく、米軍が捨てた缶詰や残飯を拾っては食べた。靴が買えずに裸足で歩いた。 下平さんは夕暮れが大嫌いだった。電気も通っていない暗い部屋で、寂しさが募った。 そんな時、いつも右隣の部屋から朝鮮人のおばさんの歌声が響いてきた。朝鮮民謡のアリランだった。「アリラン峠を越えて 私を捨てていくあなたよ」という意味の歌詞。哀愁漂うメロディーが、心にしみた。母が恋しくなった。「おばちゃん、その歌やめてよ」。聴く度に、遼子さんと一緒に泣いた。 おばさんは、その年7月の空襲で右足を失い、原爆で夫を亡くしていた。終戦から5年後、祖国に帰った。その後の消息は分からない。 □ 1953年、短大生になった下平さんは、長崎市内の興信所で和文タイプのアルバイトを始めた。所員が調査した内容を打ち込み、依頼者への報告書を作った。 何度も調査対象になる20代の女性がいた。依頼者は、裕福な家や名家が多かった。息子の縁談をまとめる前に、相手が被爆者かどうか調べるためだった。 女性は被爆後、下平さんと同じように親類の家に預けられながら生活してきたようだった。報告書は、こうくくられた。「この方は、原爆を受けていらっしゃる方です」。女性はいつも破談になった。数日後にはまた別の家から調査依頼が舞い込む。同じような文書を10回以上、打ったろうか。 胸が痛んだ。自分も同じ被爆者。当時、だるさに悩まされ、頻繁に鼻血が出たり、吐き気をもよおしたりしていた。お金がなく、病院にかかることもできなかった。「好きで被爆者になったわけじゃない。被爆者だからといってなぜ差別されるの」と、悔しさでいっぱいだった。 被爆から10年がたとうとしていた55年。被爆者援護法はまだなく、生活や病気の苦しさの余り自殺する被爆者が後を絶たなかった。下平さんと遼子さん姉妹は耐えるように暮らしていた。 遼子さんは中学校を卒業するころに盲腸を患ったが、お金がなく、治療ができなかった。右腹の肉が腐り、ウジ虫がわいた。ウジ虫は夜になると肉をかじり、夜が明けるころには丸々と太っていた。高校生になっても傷は治らず、制服からのぞく足を血やうみが伝い、悪臭を放った。 遼子さんは夜になるといつも言った。「姉ちゃん、母ちゃんのところへ一緒にいこう」。下平さんは「ダメ、生き残ったのだから。母ちゃんの分まで生きないと」とたしなめた。 6月23日の夕暮れ。下平さんが長崎市油木町の自宅にいると、男性の声が町内に響いた。「おーい、今度は若か女の子が飛び込んだぞ」 下平さんは、人だかりのできた線路へ走った。列車の車輪には、白いブラウスが巻き付いていた。遼子さんのものだった。まだ18歳だった。 遼子さんが自殺した翌日の昼、下平さんは自宅近くの線路脇にいた。「遼子が待っている」と、自分も列車に飛び込もうとした。 汽笛を鳴らしながら、列車がやって来た。ガチャガチャと車輪が回る音が次第に大きくなる。直前で恐ろしくなり、飛びのいた。 次の列車を待ったが、なかなか来ない。線路脇で、夕方までたたずんだ。その時、声をかけられた。「死ぬことはない。一緒に生きていこう」。6歳上の兄の友人、下平隆敏さんだった。 下平作江さんは決意した。どんなにつらくても、生きて、遼子さんに花を供え続けようと。 その年の暮れ、「一緒になれば、苦労する」という父の反対を押し切り、下平さんは20歳で隆敏さんと結婚した。子宮筋腫を患い、医師からは子どもはあきらめるよう言われた。それでも翌56年には双子の女の子、59年には男の子を授かった。 語り部をすると、子どもたちから、「今、幸せですか」と質問されることがある。迷わず答える。「最高に幸せ。生きてきてよかったです」 隆敏さんも被爆者だった。結婚後、体調不良が続いていた。手がブルブル震え、字も思うように書けなかった。どの病院に行っても原因がわからない。仕事を休みがちで、近所の人から「怠け者」と陰口をたたかれた。下平さんも「奥さん、今月もまた給料ゼロ?」と冷やかされた。 原爆投下から40年たった80年代になっても、差別や偏見はなくならなかった。下平さんが胆のうの手術で入院中、同室の患者の見舞いに来た中年男性2人が、わざとらしく大声で話した。 「被爆者はよかよねー。保険料がタダで」 被爆者全員が悪口を言われたようで、たまらなかった。仕切りのカーテンを開け、男性に言った。 「そんなにうらやましいなら、どうぞ被爆者になってください。私と代わりましょう。そして原爆で死んだ母と姉、兄、みんな返してください」 下平さんは被爆体験を話す時、遼子さんが自殺した話になる度に言葉に詰まる。これまで何千回と話したが、いつも涙があふれる。本当は話したくない。「遼子」と口にすれば、かわいい姿を思い出すため、今なお「妹」としか言えない。 聞いている子どもたちの目からも涙がこぼれる。講演後に下平さんに駆け寄り、「15年間生きてきて、自分には涙がないと思っていた。今日初めて涙が出た」と話す男の子もいた。寄せられる感想には「これからは人に『死ね』とか言わないようにします」など、自分の変化を知らせるものが多い。「生徒は、体験を聞いた後に長崎原爆資料館に行くと、じっくり見る」と話す先生もいた。 語りの最後に、下平さんは必ず訴える。 「家族を亡くした者の苦しみは体験した人にしかわからないというけれど、亡くしてしまったら終わりです。みなさんは、どんなことがあっても生きてください。生きて生きて、生き抜いてください」 下平さんはカラオケに誘われると、遼子さんがよく口ずさんでいた「人生の並木路」を歌ってみることがある。最後の4番になると、声に力が入る。 ♪生きてゆこうよ 希望に燃えて 愛の口笛 高らかに この人生の 並木路 下平さんは死ぬことより生きていく勇気を選んだ。今、戦争の恐怖のない社会で生きられることを心から喜んでいる。遼子さんもそばにいれば、「生きてきてよかった」と言ってくれるだろう。 (貞国聖子記者)
ナガサキノート1 記事一覧
|