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![]() ![]() 下平作江さん(73)が被爆語り部を始めて35年になる。主に子どもたちを相手に、1日3、4校を掛け持ちすることもあり、年200回ほどを数える。 甲状腺機能低下症や腎臓病を患う被爆者の夫、隆敏さん(79)の介護を、長崎市油木町の自宅で続けながらの毎日だ。下平さんも子宮筋腫、慢性肝炎などを患い、手術を繰り返した。それでも「命ある限り伝える」という思いに突き動かされる。 語る際には、ゆっくりと切り出す。「人間が人間に何をしてきたのか。たくさんの人の命を投げ出して作った平和です。苦しいけれど、悲しいけれど、私の被爆体験を話します」。鼻にかかったような独特の低い声で、抑揚はほとんどない。 10歳の時、爆心地から約800メートルの油木の防空壕で被爆した。母、姉、兄を原爆で奪われた。そして被爆から10年後に妹が自殺……。感情を押し殺すかのように、少し早口になって一気に話す。 「作江」という名前は、父が付けた。「肉弾三勇士」の一人、作江伊之助からとった。1932年の上海事変で、爆弾を抱えて敵陣に突撃したと大々的に報道され、国民的英雄に祭り上げられた人だった。友だちから「あ、同じ名前」と言われると、何だか誇らしかった。 城山国民学校(現・長崎市立城山小学校)1年生だった41年12月、朝礼で校長が話した。「日本はアメリカの真珠湾を攻撃して勝利を得ました」 集まった全校児童約2千人で万歳三唱をした。下校後、下平さんは他の子どもたちと町内を練り歩いた。日の丸の手旗を振りながら軍歌を歌った。 ♪天に代わりて不義を討つ 忠勇無双の我が兵は 歓呼の声に送られて…… 夜になると、大人もちょうちんを持って一緒に行列した。町はみな、勝利に酔いしれていた。 だが、それから2年ほどたつと、食べるものにも困るようになり、子ども心にも戦況の悪化を感じるようになってきた。 45年8月9日朝、空襲警報が鳴り響いた。 長崎市駒場町(現・松山町)の自宅近くにいた下平さんは、1歳のおいをおんぶし、2歳下の妹遼子さんと一緒に防空壕へ逃げた。母と姉は「焼夷弾が家に落ちた時、消火せんと隣近所に迷惑かける」と自宅に残った。 しばらくして警報は解除。避難していた住民は汗だくになった防空ずきんを脱ぎ、壕から出て行った。下平さんも一緒に出ると、遼子さんが引き留めた。「兄ちゃんが言ってた……」 長崎医科大学(現・長崎大学医学部)付属医学専門部1年の兄が、学長から聞いた広島の「新型爆弾」について前夜、話していた。「警報解除の後に落とされたらしいから、解除になっても壕から出たらつまらんぞ」 それでも下平さんは早く外で遊びたくて仕方なかった。「よかやがね。爆弾は落ちん。大丈夫」。けれども遼子さんは、下平さんのおんぶひもを引っ張ってきかない。しぶしぶ壕に戻った。 それが生死の分かれ目だった。 午前11時ごろ、下平さんは遼子さんや1歳のおいと薄暗い防空壕の中で遊んでいた。 突然、黄色の閃光に包まれた。爆風で壕内の岩にたたきつけられ、気を失った。 意識が戻ると、奥行き5メートルほどの壕は負傷者であふれていた。目玉が飛び出てぶら下がっている人、黒焦げの人……。はらわたが飛び出ているのは、近所の中学生だった。見知らぬおばさんに「一滴でいいけん水をくれんね」と頼まれたが、恐怖で足が動かなかった。「殺してくれろー」「水をくれろー」と、叫ぶ声が響き渡った。死臭のような強烈なにおいに耐えられず、何度も吐いた。気絶した遼子さんを見つけ、岩のすき間に挟まっていたおいを助け出し、壕の奥で肩を寄せ合った。 下平さんは泣き叫んだ。「母ちゃん、早く助けに来て。なんばしよっとね(なにをしているの)」 だが、母と姉も被爆し、この時、すでにこの世にいなかった。 翌日早朝だったと思う。下平さんがいた防空壕の外から、呼びかける声が聞こえた。「助かっている人はいるか」。父の声だ。 下平さんは声を振り絞った。「父ちゃん、助けてー」。負傷者や遺体が周りをふさいでいた。外へ出ようとして踏みつけてしまい、「痛か!」と怒られた。父が下平さんや遼子さん、おいを抱えて連れ出してくれた。 外は焼け野原。げたをなくし、裸足で歩いた。地面は熱を帯び、下平さんは「熱か、熱か」と泣き続けた。 焼け残ったコンクリートの門扉で、わが家がわかった。がれきを手でかき分けると、黒焦げの遺体が出てきた。両手で目と耳を押さえていた。爆発でやられないようにしたのだろうか。手をどけると、そこだけ焼けずに残っていた。22歳の姉だった。母は近所の家で死んでいた。黒焦げで、金歯でやっとわかるほどだった。触ると、ボロボロと崩れた。 涙も出ず、ただぼうぜんとするだけだった。 原爆投下の翌日、爆心地から約500メートルの浦上川にかかる大橋で救護隊による配給があると聞き、下平さんは遼子さんや近所の人と向かった。 橋の付近には、おにぎりを手に持ったままの人や、かじったまま倒れている人がたくさんいた。みんな死んでいた。脇の川には、黒ぶくれの遺体が流れたり、大きな岩に引っかかったりしていた。 白米のおにぎりを一人一つずつもらった。当時、大豆の搾りかすを混ぜたご飯ばかりで、白米は珍しかった。久しぶりに家族がそろった時に、大根ばかりの雑炊の底にわずかに白い米が入る程度だった。母にいつも言っていた。「真っ白なご飯、一度でいいから食べたかね。そしたらおかずは、なーんにもいらんとにね……」。 だが、念願の白米を目の前にしても、喜びはわかなかった。食べようと二つに割ると、米粒が長く糸を引いた。腐っていた。それでも空腹で、むさぼった。味も何も感じなかった。 被爆後、初めて口にした食事だった。 下平さんの兄は、原爆投下翌日の夕方になって、友人2人に両脇を抱えられ、自宅近くの防空壕に帰ってきた。 医大は爆心地から800メートル。兄は教室で被爆したが、柱の陰にいたために助かったという。白いシャツはボロボロで、足元はふらついていたが、やけどはなかった。「兄ちゃん、助かってよかったね」と、抱き合って喜んだ。 しかし、その翌日、兄の容体が急変した。医師に診てもらおうと、救援列車が運行していた道ノ尾駅まで父が連れて行った。負傷者であふれかえる列車に兄を何とか押し込んだ。だが、「やけど、ないやないか」と、けり落とされてしまった。傷がないため重症とみなされなかったようだった。 兄は防空壕に戻ってきた。入り口付近に寝かされ、何度も嘔吐し、苦しんだ。原因はわからなかった。「死にたくない、死にたくない」と叫びながら、息を引き取った。 □
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