english

ここから本文エリア

紙面から from Asahi Shimbun

この記事の英語ページへ

ナガサキノート
原爆投下は遅すぎた ロナルド・ショルテさん (1924年生まれ)
(新聞掲載は2009年4月)

写真 ロナルド・ショルテさん 写真 長崎総合科学大生が制作した福岡俘虜収容所第14分所の模型(長崎原爆資料館所蔵)

「原爆の投下は遅すぎた」。ロナルド・ショルテ(Ronald Scholte)さん(84)は、戦後ずっとそう考えてきた。2009年3月に被爆者健康手帳を取得したが、気持ちは今も変わっていない。

 元オランダ兵。1942年にインドネシアで日本軍の捕虜となり、長崎に送られ、収容所で2年余りを過ごした。過酷な労働を強いられ、健康を損なった仲間が次々と死んだ。日本人から暴力も受けた。そんな苦境からショルテさんを解放したのが、原爆の投下による終戦だった。「私にとって原爆は自由だった。平和のために長崎の市民は犠牲になったと言える」

 オランダ南部、ブレダ郊外の自宅を訪ね、話を聞いた。かつての軍の同僚には、第2次大戦で戦った日本に対して憎しみを抱く者も多いという。だが、「私は違う」とショルテさん。オランダと交流があった出島のある長崎が好きで、日本車にも乗っている。「過去を皆が背負い、現在を見ることが大切だ」と語った。

     □

 ショルテさんはインドネシアのバタビア(現・ジャカルタ)で生まれた。

 インドネシアは当時、オランダに支配され、バタビアには総督府があった。父は、植民地政府の公務員が不正をしないように監督するため本国から派遣された監察官だった。癒着を避けねばならない仕事柄、同じ土地に長くいなかった。一家はジャワ、スマトラ、ボルネオなどを転々とした。ショルテさんの少年時代の思い出には、南国の日差しが強く印象に残っている。母がインドネシア系オランダ人だったこともあり、「オランダとインドネシア、どちらも祖国という思いが今もある」。

 14歳になると、技術学校に進み、機械と電気工学を学んだ。技術者になりたかったが、17歳で軍隊に入った。「当時は一度兵役につかなければ、職を得られないようになっていた」

 任務は後方支援だったが、大陸では日中戦争が始まっており、実戦も覚悟した。だが、若さが恐怖に打ち勝っていた。

     □

 41年12月、日本は米英やオランダなど連合国と戦争状態に入った。翌42年1月、日本軍はオランダの植民地だったインドネシアへ侵攻。3月には司令部があるジャワ島のバンドンへ達した。

 ショルテさんは当時、バンドン近くのチマヒでレーダーなどを組み立てていた。次々に敗れる味方の様子や上空を飛ぶ日本軍機の数に、17歳ながらに戦局を見てとった。所属する部隊が一度も戦わないまま、自軍の降伏の知らせを聞いた。

 鉄線や竹やりで囲われた兵舎で、しばらく過ごした。3月15日早朝、日本軍が武器を回収しに来た。日本兵と接したのは初めてだった。言葉はわからなかったが、「コラ、コラ」という怒鳴り声に荒っぽさを感じた。この日本語を覚えているのは、その後の捕虜生活で何度も耳にしたからだ。

 腕には「技術者」を示す赤いひもが結ばれた。シンガポールへ移送され、英国人捕虜と同じ施設に収容された。脱走を試み、失敗して銃殺される者もいた。ショルテさんは逃げる気にもなれなかった。

 シンガポールの捕虜収容所で1年を過ごし、ショルテさんらは43年、長崎へ送られることになった。「ハワイ丸」という輸送船で門司に向けて出航した。

 ハワイ丸の前後は、日本の軍艦が護衛した。ある日、爆発音が聞こえたので、甲板に出ると、軍艦の一隻から火の手が上がっているのが見えた。連合軍の攻撃に遭ったのだ。ショルテさんらが長崎へたどり着いた翌年には、捕虜を運んでいた別の船が沈められた。この時は、捕虜や日本人ら数百人が犠牲になったとされる。

 船内の栄養状態は悪く、病気で命を落とす仲間もいた。遺体は、海に投げ込まれたという。4月29日に門司に上陸し、長崎に着いたのは、その夜だった。丸めがねをかけた所長がやわらかい物腰で出迎えた。この日の夕食には、とろみのあるスープとご飯、魚が出た。とてもおいしく、「ここにいてもいいかな」と思えたほどだ。

 だが、当初の歓迎ムードはすぐに裏切られた。

 ショルテさんがいた福岡俘虜収容所第14分所は、長崎市 幸町の三菱造船所幸町工場の一角にあった。本部は福岡にあり、長崎の香焼島にも収容所があった。戦後、厚生省(当時)で見つかった捕虜カードによると、第14分所にはオランダ、英国、オーストラリア人捕虜計約480人が収容された。原爆投下前に約150人がよそに移され、90人前後が病気や事故、空襲で亡くなったという。

 ショルテさんたちは、約2キロはなれた飽の浦の三菱造船所で働かされた。夜、収容所に戻ると、テーブルを囲んで談笑した。捕虜のリーダーは、民間出身のアールダス中尉。冷静で物静かな性格で、日本人に信頼され、交渉事を担った。

 収容所は赤れんが造りの建物だった。中には、2段ベッドがずらりと並んでいた。ショルテさんは上段で寝起きした。ベッドの端には棚があり、服を入れた。隣には、同郷で同じ部隊だった友人が寝ていた。彼は後に炭坑労働のために収容所を移され、ショルテさんは寂しい思いをした。

     □