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紙面から from Asahi Shimbun

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ナガサキノート
放射能情報のなかった沖縄 真喜志津留子さん (1924年生まれ)
(新聞掲載は2008年12月)

写真 真喜志津留子さん 写真 真喜志さん一家の罹災証明書。当時の長崎市長が発行した

 戦後数年して、真喜志さんは故郷の那覇市に戻った。一面の焼け野原。何にもなくて、びっくりした。「長崎で地獄絵を見たが、沖縄の光景もショックは大きかった」。建物はなくテント小屋で暮らした。

   被爆について話すことは、親類にさえほとんどなかった。沖縄では約3カ月にわたり、「ありったけの地獄を集めた」と表現される地上戦が展開された。その話をされると、言い出せなかった。

 本土では57年、原爆医療法ができ、治療費などの国費負担が始まった。だが、米国統治下の沖縄には適用されなかった。

 1963年、原水爆禁止沖縄県協議会が初めて被爆者の実態を調査した。78人が名乗り出た。真喜志さんもその一人だった。被爆者団体に入り、広島や長崎で開かれる原水禁大会に出かけた。パスポートを持ち、船と汽車を乗り継いで往復に10日かかった。仲間から「ぜひこれだけは訴えて欲しい」と請われ、医療費ももらえない沖縄の現状を訴えた。

 真喜志さんの母オトさんは、戦後の一時期、佐賀に移り住んだころ、血を吐き、髪の毛が抜けた。新聞に「新鮮な野菜で、新鮮な血を作ること」とあり、食べさせた。被爆時に頭を打ったせいか、沖縄に戻ってからは、突然気を失って倒れることがあった。やがて症状は治まったが、74年に84歳で亡くなるまで体調は芳しくなかった。

 真喜志さんは、沖縄がまだ米国統治下だった65年、母とともに日本政府を相手取り、医療費などを求める訴訟の原告になった。67年12月、東京地裁で証言台に立った。「沖縄の被爆者に救済措置がとられないのはなぜでしょうか。私たちは憲法の枠外に置かれ、不安におののきながら暮らしている」

 取材にうかがった際、真喜志さんは、赤茶けて真ん中で破れた紙を見せてくれた。一家の罹災証明書。父から「被爆した証明になるから、大切に持っときなさい」と託された。「死亡者 長男康輔/道子/重傷者 妻/家財全焼」と記されている。

(伊東聖記者)