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![]() ![]() 1945年8月9日、長谷崎シゲさん(86)は、爆心地から北西に約16キロ、黒崎村上黒崎(現・長崎市上黒崎町)のサツマイモ畑で雑草取りをしていた。 午前11時過ぎ、ビカッと光った。「どげんて言いようのない光。稲光のだん(どころ)じゃなか」。ドンと激しい音が続いた。「こりゃ何事か来るばい」。長谷崎さんは一緒にいた母と、畑の端にあったツバキの木の下に駆け込み、身をかがめた。しばらくすると、浦上方面できのこ雲がもくもくと上がった。目の前まで迫ってくるように見えた。 近くに疎開していた親類たち14、15人が集まってきた。牛小屋の屋根に上り、「何じゃろか」と言い合いながら眺めていた。父の川上佐一さんが言った。「こりゃもう浦上は全滅ばい」 長谷崎さんは、この日夕方から2カ月ほどの予定で、市内の兵器工場に出入りする業者の手伝いに行くはずだった。友人に配ろうと、祖母に酒まんじゅうを作ってもらっていた。「1日違えば死んでたかもしれん」 きのこ雲を見た長谷崎さんの叔父、川上好一さんが「胸騒ぎのするけん行ってみる」と言い出した。 浦上で材木屋をしていたが、妻と子ども2人とともに黒崎村に疎開。だが、純心高等女学校に通っていた長女トミさんと国民学校の先生だった長男は残したままだった。長谷崎さんの父の佐一さんが引き留めたが、好一さんは「行ってみらんことには安心できん」と、自転車で向かった。 戻ってきたのは8月12日だった。「やっぱダメじゃったばい」。自転車には集めた板きれで作った箱が載っていた。トミさんのひつぎだった。 トミさんは三菱兵器製作所大橋工場に動員されていた。好一さんは当初、見つけられず、諫早や大村まで回った。再び工場に戻り、ようやく捜し出した。真っ黒に焦げていたが、うつぶせの体を返すと、へその辺りにもんぺの布がわずかに残っていた。「川上」のはんこが読み取れた。ヤスリ2本を抱きしめていたという。 □ 長谷崎さんは9人きょうだいの2番目。45年8月当時、長男蔵一さんは長崎市飽の浦町の三菱造船所で設計の仕事に就き、三男健さんは三菱兵器茂里町工場に動員されていた。 原爆投下から数日たっても、2人から連絡はなかった。長崎市内で働いた経験のある長谷崎さんに、父が頼んだ。「ひょっとしたら死んどるばい。お前どん(お前たち)が行ってくれろ」。長谷崎さんは三女ハルエさん(当時16歳)、四男好竹さん(当時12歳)を連れて、12日午後2時ごろ、家を出た。 草履を履き、防空ずきんをかぶった。暑い盛りだったはずだが、暑かったという記憶はない。大橋まで7里(約28キロ)と言われる道のりをひたすら歩いた。滑石峠にさしかかった時は夜だった。道端に3人で身を寄せ合い、野宿した。 翌日、市内に近づくにつれ、においがひどくなった。1、2人が通れるほどの道はあったが、周りは人や馬の死体が散乱していた。川には裸同然の遺体が折り重なっていた。鼻をふさぎながら歩いた。 健さんが動員された工場は、焼けてなくなっていた。健さんを見つけられず、飽の浦町にあった蔵一さんの家に向かった。だが、鍵がかかり、近所には誰もいなかった。仕方なく、黒崎に戻ることにした。 滑石峠で再び野宿した。家から持ってきたおにぎりが残っていたが、遺体の腐敗臭が体に染み付き、食べる気になれなかった。 結局、兄と弟は無事だった。健さんは原爆投下の数日前まで浦上駅近くの寮にいたが、兄から「危なかけん、うちから通え」と言われ、飽の浦町の家に移っていて難を逃れたという。 30年ほど後、好竹さんは「入市被爆者」として被爆者健康手帳を取得した。だが、入市当時の状況を説明した長谷崎さんは、市の担当者に「そげん(そんな)子どもば連れて長崎へ来るわけなか」となかなか信じてもらえず、悲しくて泣いて帰った。 □
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