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![]() ![]() 自らも被爆者である、長崎大医学部原子爆弾後障害医療研究所(原研)の朝長万左男教授(65)が2009年春、定年退官した。2月17日の最終講義で語った。「私が研究を始めたころは、被爆の影響は今ごろなくなっていると予想されていた。だが、現在も被爆者は白血病を発症している」 実家は大村藩の家老の家系で、祖父の代から医師になった。朝長さんが生まれた時、父と祖父の名前から1字ずつ取って「正雄」と名付けられるはずだった。だが、近所の寺の住職から「アジアの万民を助ける医師に育てなさい」と、「万左男」という字を授けられた。 原爆投下当時は2歳だったため、記憶がない。だが、思春期のころ、被爆者にがんや白血病が増えていると知り、「もしかしたら自分も」と、かすかな不安が胸をよぎった。それが研究の原点という。 父の正允さん(1916―71)は原研の初代内科教授。父と子は2代60年にわたり、被爆者に寄り添ってきた。 □ 朝長さんの自宅は戦前、長崎市玉園町にあった。だが、戦時中、空襲に遭った際の延焼を防ぐために取り壊され、強制疎開させられた。代わりの家を西坂に借り、祖父が医院を開業した。現在のNHK長崎放送局の裏あたり(爆心地から2・7キロ)だった。 45年8月9日に原爆が落とされた時、2歳だった朝長さんは自宅2階で寝ていた。爆風で家は崩れたが、偶然、梁と梁のすき間ができて無傷で済んだ。それを知ったのは、幼稚園か小学校のころだ。「お前は運が良かったんだよ」と、母から言い聞かされた。 長崎での当初の原爆投下照準点は市中心部の常盤橋から賑橋付近だった。ところが、米軍爆撃機の搭乗員が雲の切れ目から投下したため、約3・4キロ離れた浦上地区で炸裂した。爆心地と朝長さんの自宅の間には山があり、熱線を防いだ。 もし、狙い通りに落とされていれば、そこに山がなければ……。「私は間違いなく死んでいた」 原爆で焼け出された朝長さん一家は、大村市に疎開した。その際、旧知の永井隆博士から長男誠一さんを託され、預かった。 『長崎の鐘』で知られる永井博士は、原爆で妻を失い、自身も長年の放射線医療研究で白血病を患っていた。その上、被爆者の治療や大学の講義に追われ、子どもの世話を十分にできなかったためだ。 それでも時間を見つけては、永井博士は朝長家にやってきた。だが、白血病による貧血がきつく、すぐに横になった。子どもだった万左男さんは、そのまねをして寝そべった。著書『ロザリオの鎖』で、永井博士は次のように書いている。 《あの子(誠一さん)はすっかりあの家庭の子になって、あばれたり、甘えたり、叱られたり、ほめられたりしています。(中略)私は誠一といっしょに三カ月お世話になっていました。そのうち病勢が進んで畳の上にごろごろ寝る癖がつきました。すると、朝長先生の長男の五つになるマア坊がそれをまねはじめたのです》 □ 朝長さんの父正允さんは戦後、白血病に侵されていた永井博士の主治医になった。臨終もみとった。 聖人のように言われる永井博士だが、正允さんは「そげん(そんな)人じゃない。人間味があった。あの人は俗人だった」と、朝長さんに語った。 正允さんと永井博士は長崎医科大学(現・長崎大学医学部)のバスケットボール部の後輩・先輩の仲だった。酒に酔った博士が長崎駅で安来節を踊り、列車の出発を遅らせたこともあった。博士は従軍経験があり、軍国主義の人でもあった。大学の長い廊下を軍靴を鳴らして歩いていたという。 だが、白血病と原爆が永井博士を変えた。博士が書いた原爆報告書には、こうある。 《一見社会とは無関係にみえる学者の研究室の仕事が如何に重大な結果を生むかを今こそ知ったであろう。(中略)すべては終わった。祖国は敗れた。(中略)今更何を云わんやである。唯願う処はかかる悲劇を再び人類が演じたくない》 正允さんは、医大を1941年に繰り上げ卒業し、軍医になった。敗戦後、台湾で約1年の捕虜生活を送り、帰国。母校に戻り、内科(現在の第2内科の前身)の助教授になった。 48年ごろ、長崎市内で白血病患者が増加していることに気づいた。原爆の放射能の影響が疑われた。血液学を学ぶ必要に迫られ、週1回、汽車で何時間もかけて熊本大に通った。白血病について教わっては、患者の血液を調べた。さらに、市丸道人医師(後の長崎大学医学部教授、原研施設長)とともに、市内の病院で患者が白血病と診断されると、大学に通報される仕組みを作った。長崎市にある放射線影響研究所には今も、正允さんの集めた血液検体が保存され、研究に使われている。 80年代、白血病の分類が大幅に変更された時、朝長さんは研究所の血液標本を顕微鏡でのぞいた。「父もこれを見たのか」。正允さんの付けた診断を改めながら、医学の進歩を感じた。 朝長さんには、正允さんとの思い出は少ない。正允さんは医者、研究者、教育者として多忙を極めた。家では早飯で早風呂。朝長さんがゆっくり風呂につかっていると、怒られた。その半面、時折、戦争体験を語り、「運良く生き残っただけだ」と話していた。 1959年、正允さんは広島大の原子爆弾後障害医療研究所教授に迎えられ、一家は広島に引っ越した。朝長さんは高校生だった。歴史好きだったため、大学は史学科に進もうと考えた。 幼くて記憶にない原爆について教えられた時は「自分も被爆者なのだ」と、漠然と思っただけだった。長崎や広島の路面電車やバス内で、顔にケロイドが残る人を目にしたが、自分のような「無傷の被爆者」には、別世界の人のように感じられた。 だが、歴史を知れば知るほど、疑問がわいた。「米国があえて人間の上に原爆を投下した動機は何だったのか」「人はなぜ、戦争をするのか」 それを今も問い続けている。 □
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