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![]() 崎田さんは数年前、両足股関節の骨が壊死する病気で手術を受けた。局部麻酔だったので、意識があった。手術台に寝かされ、電気のこぎりで骨が切られた。「あ、あの時のにおいだ」 原爆投下直後、現在の天神町にあった家から山へと逃げる際に通った農道に、散乱していた遺体のにおいだった。自分の身を切る時に被爆を思い出す。因果を感じた。 山を越えて、長崎の市街地の方へと下り、やけどの治療場所を探した。勝山国民学校(現・長崎市立桜町小学校)の校舎に入ると、数人の看護婦と何十人ものけが人がいた。2度目の呼びかけでようやく気づいてくれた看護婦がワセリンを投げてよこし、それを塗った。 「家に帰ろう」と、路面電車の軌道沿いに歩いた。あちこちで電線が切れ、割れた屋根瓦が散乱していた。歩く人はいなかった。県庁の下まで来ると、警防団がロープで通行止めにしていた。長崎駅より北には煙が立ちこめていた。 煙の下には、崎田さんの自宅があった。 「両親や姉たちを助けに行かなければ」。通行止めのロープをくぐって走り出したところで、警防団の大人2人につかまった。泣き叫び、逃げようと暴れるほど、肩をつかむ手がやけどした背中の皮膚に食い込んだ。1時間ほど、動けなかった。「孤児になった」。あきらめが襲ってきた。 ふと、子どものころに訪ねたことのある遠縁が、市内の館内町にいることを思い出した。そのあたりなら被爆を免れているようだ。夕方にたどり着き、落ち合うことができた。 45年8月9日。長い一日はまだ終わらなかった。 夜、空襲の警戒警報が発令された。みんなで山の防空壕に逃げた。だが、重傷の崎田さんは途中の山道に置いてけぼりになり、松林の中で野宿した。敵機の照明弾で昼間のように明るくなった。蚊に刺されたかゆさと、いつ死ぬかという怖さで朝まで一睡もできなかった。 館内町の遠縁の家に、叔父が迎えに来たのは、原爆投下から3日目の朝だった。やけどで弱った崎田さんをリヤカーに乗せ、「三菱の工場に行けば、何か治療を受けられるかもしれない」と運んでくれた。 のどが渇いた。だが、当時は原爆でやけどを負ったら水を飲んではいけないと教えられていた。叔父から「今飲んだら死ぬ」。湿ったタオルを口にくわえさせられた。チューチューと少しずつ吸った。 その後、崎田さんは重傷者として、市街地から南東に山を越えた茂木町の料亭に置かれた臨時救護所に移された。急性症状に襲われ、下痢が続き、血便が出た。やけどの治療は、赤チンで消毒し、油薬を塗ってガーゼを当てるだけだった。ガーゼが傷に張り付き、交換するのが痛かった。いっそ殺してほしいと願った。 臨時救護所は10月初めに閉鎖された。50人近くいた入所者のほとんどが死んだ。生き残ったのは崎田さんら3人だけだった。 両親に救護所で再会できたのも、このころだ。2人は浦上川の対岸、西町の路上で被爆し、長崎県諫早市に運ばれていた。 □ 戦後まもなく、父が「いわしの特配(特別配給)があるから」と、崎田さんの診断書をもらってきた。「原爆症による栄養失調状態」と書かれていた。被爆後、健康そうに見える人が突然死んでいく理由が原爆症だと初めて知った。 若いころは炭鉱の坑外夫として働いた。だが、貧血がひどくなって倒れ、意識不明で40日間入院した。「原爆のせいだ」と思った。 アルバムは、病院で撮った写真ばかりだ。50代の証明写真が3枚あり、1枚はふくよかに見えた。「少し太っているころもあったんですね」と聞くと、「病気によって、体が腫れたりやせたりした」。 30年ほど前、子どもたちが「戦争って、かっこいい」と話しているのを聞き、崎田さんは語り部活動を始めた。今も年間20回ほど、「永遠の10秒」について語る。被爆者として「平和は当たり前ではない」と伝える義務を感じているからだ。 2008年夏は、孫の通う銭座小学校で語った。 (岡田玄記者)
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