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![]() 永遠の10秒――。 長崎市在住の崎田昭夫さん(79)は原爆が落とされた瞬間を、そのように記憶している。 ベラルーシの医学生3人を迎え、2008年8月7日に開かれた市民交流会。チェルノブイリ原発事故の被曝者でもある3人に請われ、語り始めた。 1945年8月、三菱の企業内学校「三菱工業青年学校」の特修科3年生だった。働きながら学ぶつもりだったが、戦争が激しくなると、ほとんどを工場に動員されて過ごした。工場は赤迫のがけに掘ったトンネル内にあった。仕事は、魚雷をつくる工具の検査だった。 夜勤明けで、あの朝を迎えた。午前9時に工場を出たが、路面電車は満員。旧銭座町2丁目(現・天神町)の家に1時間かけて歩いて帰った。 制服も脱がずに横になると、すぐに眠りに落ちた。だが、寝苦しさですぐに目が覚めた。「まだ、こんな時間か」。柱時計は午前11時を指していた。 「夕方の出勤には間があるな」。それまでに、寝汗でびっしょりになった上着とシャツを洗おうと、家(爆心地から約1・6キロ)の裏庭に出た。上半身裸になると、たらいを出し、水道の蛇口をひねった。 ブーン……。かすかな音が空から聞こえた。飛行機のエンジン音だった。「こんな時間に飛ぶのは日本の飛行機だろう」 続いて、ボンッという爆発音がした。金比羅山には高射砲陣地があったことを思い出し、「今のは敵機だったのか」。 飛行機が飛んでいった浦上の方を見上げた。その瞬間だった。 赤みがかったオレンジ色の光の玉が浮かんだ。地上から見た太陽と同じくらいの大きさ。赤い光が飛び散ったかと思うと、青や黄色に変化しながら、光の矢となって顔に突き刺さった。ものすごい熱さと痛みに、「アチー」と叫んだ。 左手で顔をなでると、額から口のあたりまで皮がべろりとむけ、垂れ下がっていた。 目の前に防空壕があった。45年8月1日の空襲で近所に爆弾が落ちたため、父が掘ったものだった。飛び込んだが、家財道具が押し込まれていて奥に入れなかった。やむを得ず、中を向いて立った。丸めた背中を光に焼かれた。そこで今度は入り口を向き、尻もちをつくように座った。体や頭を隠そうとしたが、落ちていた父のワイシャツをかぶるのがやっとだった。 目を閉じても、目の前は真っ白。光はまぶたを抜け、頭の中を通り過ぎた。光に包まれている間、火の中に体を突っ込まれたように熱く、苦しかった。永遠に続くのではないかと思った。 突然、光が消え、あたりは真っ暗になった。熱さも何も感じなくなり、意識が遠くなった――。 原爆投下からここまでを、崎田さんは5分近く話した。「これ、わずか10秒ほどの出来事です」 ベラルーシの医学生は、言葉もなく聞いていた。 □ 「永遠の10秒」の後のことも詳しく聞きたいと、崎田さんの自宅を訪ねた。 「最近、物忘れが激しくて。昨日のことも覚えてない。でも、原爆のことは絶対に忘れない」 45年8月9日。原爆の光に包まれた後、どれくらいたったか。意識が戻り、目を開けた。 暗闇で何も見えなかった。あの光を直接見たからか、原子雲が空を覆っていたからかは、はっきりしない。しきりに目をこすると、しばらくして光が差してきた。防空壕の外は、もやに包まれ、薄暗かった。自宅はかろうじて建っていたが、近所の家々は将棋倒しに。動くものは何も見えなかった。 なぜこんなことになったのか。「最初に見たオレンジ色の火の玉は太陽だったのだ。何かの異常で太陽が地球を焼き尽くした」 崎田さんはそう信じた。新型爆弾が落とされたとは考えもしなかった。 「地球上で私一人が生き残った」。自宅裏庭で被爆直後、崎田さんはそう思い、心細くなった。 一人でどうやって生きていこう。何の音もしない。「この世の終わりだ」と思うと、不安と恐ろしさで全身の力が抜け、その場に座り込んだ。 「太陽」が光った方角を見た。爆心地は丘に隠れて見えなかったが、煙の中を山の上に逃げる無数の影が見えた。「人間が生きている」。うれしくなった。 自分もとにかくどこかへ逃げようと、服や靴を探しに家へ入った。窓ガラスは割れ、土壁は崩れていた。その朝、両親は不在だったが、姉は3歳になる長女と2階にいたはずだ。名前を呼んだが、返事はなかった。 半袖のTシャツを見つけ、着ようとしたが、頭が襟口を通らない。両手で顔を触ると、やけどでカボチャのようにふくれあがっていた。仕方なく、首に袖を巻き付けた。履物は見つからず、裸足で歩いた。ガラスの破片が足の裏に突き刺さった。 家を出たが、走る元気などなかった。 家の前の石段を下りると、下の方から幽霊のような姿の女性が歩いてきた。同級生の母親だったが、崎田さんには気づかないようだった。声をかけたつもりだったが、言葉にならなかった。 女性は空き地の奥の防空壕に入っていった。一緒に中に入ろうとすると、後ろから「おい」と呼び止められた。被爆後、初めて聞いた人の声だった。 振り向くと、体格のいい男が立っていた。「お前は何もけがをしていないな。医者を呼んでこい」と言われた。「こんなに大やけどをしているのに」と思い、横柄な態度に腹が立った。「人に頼む態度じゃないだろう」と言い返すと、男は崎田さんを突き飛ばし、どこかへ走り去った。 奥行き4、5メートルの壕に入ると、暗闇の中には、うめき声が満ちあふれていた。「痛い、痛い」「苦しい」……。崎田さんは「ここにいたら、自分も参ってしまう」と思った。 □ 被爆直後の話を始めて1時間ほどたったころ、崎田さんは「本当に恥ずかしく、ご遺族がいるなら合わせる顔もないのですが……」と口ごもった。 「私は、助けを求めた人を見捨てているんです」 うめき声のあふれる防空壕を出て、山へ逃れようと石段を50メートルほど上ると、広場があり、石垣が崩れていた。以前は半地下式の防空壕になっていたところだった。 かすかな声が聞こえた。「助けてください」。石の下から手が伸びていた。すき間から、白髪の頭も見えた。声の感じから、70歳ぐらいの女性のようだった。一緒に2、3歳の子が生き埋めになっていた。石をどけようとしたが、何もできない。 人を呼んでこようと、崩れた石垣を乗り越えた。広場の端に40歳ぐらいの男性がいた。「おじさん、すみません」。 声をかけても振り向いてくれない。幸町の工場が燃える様子を、なすすべもなく見つめていた。 男性の両手を、崎田さんが引っ張ると、ようやく振り向いてくれた。だが、大やけどで腫れた崎田さんの顔を見ると、驚いて手を振り払った。もう一度、手をつかもうとした時、飛行機の音がした。 「そこの子ども、白いシャツ脱がんか。敵機の目標になるぞ」。近くの森から声が聞こえた。狙われていると思った途端、腹の底から震えがきた。首に巻いていたシャツをあわててふりほどき、森に駆け込んだ。生き埋めの女性はそのままになった。 その後、原爆による大火災で一帯は全部焼けた。今思えば、声をかけてくれたのは警防団の人だったのではないか。あの時、女性の救助を訴えていれば、助かったはずだ。長い間、後悔し続けた。 森を抜け、農道に出ると、大勢の人がうつぶせに倒れて死んでいた。服は裂け、焼け焦げている人も。ほとんどが、道端の深さ30センチほどの溝に顔を突っ込んで息絶えていた。所々に、何日も前の雨水がたまっていた。その泥水を求めたのだった。 □
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