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紙面から from Asahi Shimbun

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ナガサキノート
原爆の年のクリスマス 小崎登明さん (1928年生まれ)
(新聞掲載は2008年12月)

写真 小崎登明さん

写真 小崎さんが保管する、廃虚の浦上天主堂の写真

 秋雨の降る10月8日、小崎さんは、かつて母と一緒に行った聖母の騎士修道院の門をたたいた。出てきたポーランド人の修道士は、小崎さんのことを覚えていた。母のことを尋ねられ、「原爆で死にました」と答えると、修道士は目頭を押さえた。

 もう一人の神父に「神学生になりたい」と告げると、優しく抱きしめてくれた。それが入学許可だった。奥の炊事場に導かれ、なみなみと注がれたみそ汁を出され、飲み干した。

 その後も原爆による疲れや下痢は治まらなかった。だが、戦勝国の支援で食べ物も着る物も豊富にあった修道院のおかげか、徐々に普通の生活が送れるようになった。勉強し直そうと、18歳で中学3年に入った。理科の先生は、『長崎の鐘』などの著書で知られる被爆医師の永井隆博士だった。

 神学生になって5年。いよいよ修道士という時、小崎さんは腎臓結核になった。「原爆で体が弱っていたのだと思う」。腎臓を一つ摘出した。

 小崎さんは1953年に小長井町(現・長崎県諫早市)の修道院に移り、療養生活を送るが、残されたもう一つの腎臓も結核になった。薬はなく、もはや手術もできなかった。脇腹からうみが出て、高熱にうなされた。

 病床で身動きできず、死を思った。一人になって原爆について考え、見聞きしたことを文章にまとめた。当時の日記も参考にした。

 何度読み返しても書かれていないことがあった。自分が見捨てた人たちのことだった。

 修道院や神学校では、被爆者だからといじめられることがなかった。原爆とは縁が切れたような生活を送っていた。ところが、病気になり、孤独になって初めて、見捨てた人たちを思いやれるようになった。「どういう気持ちで死んでいったのか」「見捨てた私をどう思ったのか」……。

 看病してくれたシスターが、米軍の従軍司祭から特別な薬を手に入れてくれたおかげで、一命を取り留めた。だが、後ろめたさは消えなかった。

 原爆投下時、トンネル工場にいてけがをしなかった小崎さんは、まず三菱兵器大橋工場に向かったのだった。中に入ると、3、4人の工員が、材木の下敷きになった女子学生を助けようとしていた。

 みんなで1時間かけて助け出した。担架に載せ、救援列車の来る線路まで運んでいた時、頭上に敵機の音がした。「また爆弾を落とされる」と怖くなった。先頭の年長の男が何度も腕を振り下ろした。「担架をおろせ」というしぐさだった。互いに顔を見合わせ、うなずいた。担架を地面に置き、走って逃げた。「あの子をおぶって来られたのではないか」という思いを打ち消した。

 それから10年後、人を介して、その女性に会うことができた。何度謝っても自分は許されないと、小崎さんは思った。女性はあの後、通りかかったお年寄りの男性に助けられたと知らされた。その男性は女性を背負って線路まで運ぶと、名前も告げずに去ったという。

 女子学生を置き去りにした小崎さんは、近くの林に逃げ込んだ。  林の中は、けが人があふれていた。目を背け、さらに奥に逃げると、男が腹の裂け目からあふれる内臓を手で押さえていた。同じ職場で働いていた3歳上の工員だった。原爆が落とされた時、小崎さんは日勤でトンネル工場にいて助かった。だが、夜勤だった男は寮にいて被爆したのだった。

 その1週間ほど前、小崎さんはその男に顔を殴られた。「気合を入れる」という理由だった。腹に据えかね、後日に決闘することになっていた。

 その男が目の前でうめいていた。小崎さんは「ざまあみろ。いい気味だ。くたばったか」とののしった。男はぎょろりと目をむき、「畜生」とつぶやいた。

 なぜ、あの混乱の中であの男に出会ったのか。なぜ、苦しむ男をあざ笑ったのか――。小崎さんは自分の本性を知った心の痛みとともに、今もあの姿を思い出す。

 工員仲間を見捨てた小崎さんは、林の奥にあった防空壕に逃げ込んだ。うつむいて目を閉じると、母親の姿が浮かんできた。敵機の音が遠ざかると、自宅へと急いだ。

 巨大なガスタンクがぐちゃぐちゃになっていた。人も馬もみんな死んでいたが、焼け焦げた遺体は土の人形にしか見えなかった。

 浦上川まで来ると、橋が落ちていた。川面では、遺体の髪の毛がゆらゆらと揺れる。げたを脱ぎ、川を渡ろうとすると、足元から、10歳ぐらいの男の子の「助けてください」という声が聞こえた。何度も何度も呼びかけられ、足にすがりつかれた。「誰かが助けてくれるよ」と振りほどいた。「お兄さぁーん」と呼ぶ声が耳に残った。

 しばらく行くと、家の前でうずくまる女の子がいた。聞けば、母親が下敷きになっているという。柱の下に女性の髪の毛が見えたが、どうにもならないとあきらめ、その場を去った。

 しばらくして、その一帯は火に包まれた。

 原爆投下の翌日から、城山の丘で小崎さんとともに野宿した少年がいた。少年はどこもけがをしていないのに、すぐに疲れて座り込んだ。周りの大人たちは少年を「怠け者」とののしった。

 数日すると、少年が血便になった。一緒に暮らす仲間はチフスだと疑い、感染を恐れた。少年を山の上の防空壕に運び、「また来るから」と言って放置した。

 辺りには腐敗臭が漂った。少年の髪は抜け、手足は変色した。数日後、むしろの上で亡くなった。その後、少年の遺体をどうしたのかも覚えていない。

「みんな、ピカドンって呼んだけど、原爆だなんて知らなかった。まして原爆症なんて。知っていれば、あんなことはしなかったよ……」。今ではあっけらかんと被爆体験を語る小崎さんだが、この話をした時ばかりは目に涙を浮かべた。

「新型爆弾」という言葉が小崎さんの日記に出てくるのは、45年8月23日になってからだ。

    □

 45年秋、修道院に入った小崎さんはポーランド人のマキシミリアノ・コルベ神父を知る。

 コルベ神父は1930年、長崎市に聖母の騎士修道院を開き、6年後に帰国した。第2次世界大戦中の41年、「反ナチス的」という理由でナチス秘密警察に逮捕された。亡くなったらしいとは聞かされていたが、国際通信が途絶えていたため、46年9月まで詳しい消息はわからなかった。

 届いた手紙には、コルベ神父がある男性の身代わりにアウシュビッツ収容所で処刑されたとあった。「原爆で人を見捨てた自分。身代わりになったコルベ神父……」。小崎さんはショックを受けた。

 アウシュビッツでは、脱走者が出ると見せしめに同じ宿舎から無作為に10人が選ばれ、餓死刑にされた。ある日、神父と同房の男が脱走し、男性が餓死刑に選ばれた。男性が「私には家族がいる」とつぶやくと、コルベ神父が身代わりを申し出た。

 聖母の騎士修道院にある聖コルベ記念館長も務める小崎さんは、83年から94年まで3度、ポーランドに足を運び、コルベ神父が救った男性を訪ねた。

 神父は「私は、選ばれた人のうち一人の代わりに行くことを望みます。彼には奥さんと子どもがいる。私はカトリックの司祭で、独身です」と、男性の身代わりに餓死刑とされることを申し出たという。収容所の責任者は身代わりを許可した。餓死房でコルベ神父は聖歌を歌って収容者を励ました。17日後、最後まで生き残った神父は毒薬を注射されて殺害された。

 戦後、男性は「お前のせいで神父は死んだ」と責められ、苦しんだ。「自分が死んだ方が良かった」とさえ思った。だが、ある時、神父について話すことを決めたと、小崎さんに語った。「それが生き残った自分のつとめだから」

「原爆を生き残った自分も同じだ」。小崎さんは語り部になろうと決めた。母の50回忌の94年8月9日から被爆体験を話し続けている。

 2008年秋、小崎さんの取材を始めてしばらくして、「映画に行こう」と誘われた。

 マット・テイラー監督の「GATE」。福岡県星野村で燃やし続けられている原爆の火を、核実験場だった米国トリニティ・サイトまで運ぶため、2500キロを行脚する長崎の僧侶たちを追ったドキュメンタリー。小崎さんも語り部として出演している。

 銀幕に映し出された原爆の火を見て、小崎さんは「原爆で燃える自分の家を思い出したよ」。

 炎に包まれた街を歩いたあの日、自宅に向かう途中で金持ちの家の前を通った。前日まで立派そうに振る舞っていた主人は、家の前でうずくまっていた。そして、数日後そのまま死んだ。「この世ははかない」。小崎さんの17歳の原体験だ。

 だから、信仰の道に生き、永遠の価値を探し続けた。60年余りが過ぎた。小崎さんは手を合わせ、「平和への祈り」を唱える。「私を平和の道具としてお使いください」

(岡田玄記者)