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![]() ![]() クリスマスイブの2008年12月24日、長崎市本河内2丁目の聖母の騎士修道院でミサがささげられた。 「原爆の年もクリスマスは豪華だった」。修道士小崎登明さん(80)は手を合わせて祈り、振り返った。戦勝国のポーランド人が作った修道院には、占領軍から物資が特別に与えられていたからだ。 原爆で唯一の家族だった母を奪われた。母は敬虔な信者だった。一緒に訪れた修道院を頼り、神学生になった。 クリスマスパーティーはポーランド式だった。パンを修道者同士で分け合い、ラテン語で聖歌を歌った。「今年は原爆が投下され、哀れな人がたくさんいる。サンタクロースは忙しくて、ここには来られない」と、代わりに修道士から贈り物を渡された。学生服だった。ふと、「なぜ自分は、こんなところで明るく楽しくやっているのか」と不思議に思った。 翌日、神学生仲間は実家に帰った。だが、小崎さんに帰るところはなかった。 小崎さんは、隠れキリシタンの子孫だ。両親が出稼ぎをしていた朝鮮半島北東部の羅津で生まれ育った。一人っ子で、3歳まで乳離れしなかったという。10歳の時、父が急死。母一人子一人で暮らした。 羅津では、街で唯一のカトリック信者だった。肩身が狭かった。中学校の入試面接では「天皇の軍隊とキリストの軍隊が戦争したら、どちらに入るか」と聞かれた。「キリストの軍隊」と答えたが、悔しくて涙が出た。 15歳の時、カリエスを患った。朝鮮の大きな病院でも手に負えず、母の実家の浦上に引っ越し、長崎医科大学付属病院(現・長崎大学病院)にかかった。病院の近くには、東洋一と言われた赤れんが造りの浦上天主堂がそびえていた。「信者たちの懐に入ったみたい。もう引け目は感じなかった」 3年ほどの入院中、母は住み込みで看病してくれた。母は朝夕の祈りを欠かさず、天主堂に通っていた。退院後、小崎さんも毎朝ミサに通った。 □ 小崎さんは1944年、三菱兵器製作所の少年工員となった。長崎市赤迫のトンネル内にある工場で働いた。 45年8月9日の朝も同市岡町(爆心地から500メートル)の自宅を出た。「母ちゃん、行くよ」と声をかけた。いつもは「行っといで」と送り出してくれる母が、その日は返事をしなかった。だが、気にせずに玄関を出た。げたをならして振り返ると、台所の窓から、食器を洗う母がにっこりと笑った。まさか、あの笑顔が最後になるとは思わなかった。 ロザリオを手に祈りながら、工場に向かった。 小崎さんが記した当時の日記には、原爆が炸裂した瞬間が次のように書かれている。 《午前11時頃、我、トンネル工場(三菱兵器、道ノ尾第六工場)にて、魚雷生産中、突然、トンネル内、電球きえ、真暗となる》 ドーンという爆音がしたと同時に、爆風が吹き込んできた。あまりの音の大きさに、しばらく耳が聞こえなかった。 トンネル工場内では、誰も原爆とはわからず、「エアが破裂したらしい」「入り口でダイナマイトが爆発したらしい」と、うわさが流れ始めた。明かりが消えて作業はできない。若い工員たちは「さぼれる」と喜んだ。 すると、女子学生が泣きながら外から入ってきた。弁当を配る係の子だった。髪の毛はちりちりで大やけどをしていた。「太陽のような光が走った。気がついたらこうなっていた」 奥行き300メートルのトンネル内は、たちまち血まみれのけが人でいっぱいになった。あまりの多さに恐ろしくなり、機械の陰に隠れた。トンネルを警備していた海軍警戒隊に見つかり、銃剣を突きつけられ、負傷者の収容を命じられた。しぶしぶ工場から外に出ると、家々が燃えていた。 「なぜ、みんな火を消さないんだ」。昨日までは、すぐに火を消せと何度も防火訓練をしたのに。朝まであった何もかもが跡形もなかった。 目の前には、タクシーが横転し、運転手が畑に転がっていた。小高い丘に登ると一面が火の海だった。工場から1・8キロ離れた岡町の自宅にいるはずの母が心配になった。 焼け野原を歩いて自宅へ向かった。両目が飛び出し、舌をべろんと出して立ったまま黒焦げになった人。苦しんで動けない人……。散乱した遺体の中を、悠々と歩く自分がいた。 「自分だけなぜけがをしていないのか、無傷なのか理解できないんだよ。不思議なもんでね、エリートになったような感じがした」 5時間ほどかけて、実家が見えるところまで来た。だが、何も残っていなかった。 原爆が落とされる前、工場の機械を使って金属片から指輪を作った。母へのプレゼントだった。母はいつもそれをしていた。焼き尽くされた実家からは、指輪はおろか、母の亡きがらさえ見つからなかった。 小崎さんはトンネル工場に戻り、8月9日の夜を明かした。うつらうつらしていると、夢か幻か母の姿が見えた。「母ちゃん、どこにいるの」。声をかけると、ほほえみを残して消えた。 幼いころ、母がよく話してくれたおとぎ話を思い出した。大雨で母ガエルの墓が流されそうになり、泣く子ガエルの話だった。「だから、雨が降るとカエルが泣くのよ」と、母は語った。「カエルの母ちゃんは体を残したのに……。母ちゃんの遺体はどこにあるの」と泣いた。 翌朝もう一度、家に戻ったが、やはり何もなかった。その夜から、小崎さんは城山の山中に野宿した。 川の向こうには浦上天主堂が見えた。崩れて表と脇しか残っていなかった。祭壇の辺りが赤く燃えていた。当時は軍が倉庫として使っており、備蓄した米や缶詰などを保管していた。それが燃えていたのだった。神父と数十人の信者が亡くなったと聞いたが、遺体も何も見つけられなかった。 原爆投下の翌日から17日間の野宿生活を、小崎さんは、近所の人と一緒に暮らした。 隣家の3姉妹もいた。庭の花を摘んでは「お兄ちゃん」と持ってきてくれた。3人は無傷だったが、日を追うごとに元気がなくなった。卵や野菜をもらってきて食べさせようとしたが、全身に紫色の斑点が出て、相次いで死んだ。 タンスの引き出しを棺おけ代わりに、三段重ねにして焼いた。頭や手足は骨になったが、内臓が焼け残った。「ごめんな」と言いながら、竹の棒でおなかを開いた。もう涙も出なかった。 9月になって、外海町(現・長崎市外海地区)の父の実家を訪ねた。そのころから、けだるさに襲われ、手に吹き出物ができた。下痢にもなった。体がだるくて昼寝ばかりしていた。友人に手紙を出したが、原爆で亡くなっていた。もはや、何をどうすべきかわからなくなった。 ふと、母に連れられて行った修道院を思い出した。 □
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