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![]() ![]() 元山寿恵子さん(78)=長崎市愛宕1丁目=は2008年9月から09年1月まで、国際交流NGO「ピースボート」が主催する地球一周の船旅に出た。長崎や広島の被爆者約100人と若者ら約600人が乗り、訪問先で持ち回りで被爆体験を証言した。 元山さんの証言の場はイタリアのパレルモだった。若者から老人まで約50人の聴衆に、14歳での被爆体験に加え、高校生が核兵器廃絶を訴えて取り組む署名活動、その署名を携えて国連欧州本部を訪ねる高校生平和大使についても紹介した。講話後、「署名をしたい」と名乗り出てくれた人もいた。旅ではまた、フランスの核実験による放射能の被害に遭ったタヒチの人やウラン採掘で被曝したオーストラリア人とも交流した。 元山さんの目には、ピースボートの船中で出会った若者たちがうらやましく映った。好きな洋服を着て、自分の思う通りに行動でき、世界中の人と交流する……。元山さんの少女時代には、許されなかったことばかりだ。 □ 元山さんは4姉妹の末っ子。警察官だった父の転勤で、長崎市内や壱岐に引っ越しを繰り返した。 生まれた翌31年に満州事変が起こった。戦争とともに育ち、「ぜいたくは敵」「鬼畜米英」と教わった。佐古国民学校(現・長崎市立佐古小学校)在校中に、日本が米英などに宣戦布告したと聞いた。だが、周りの大人たちに慌てた様子もなかった。「戦争に対する感覚がまひしていた」 国民学校に通っているころ、冬場に「寒い」と言うと、「もっと寒いところにいる兵隊さんがいる」とたしなめられた。靴下は履けず、上着を着た記憶もない。裸足で雪中行進の練習をした。爆撃に備えた訓練では、机の下に逃げ込み、鼓膜が破れるのを防ぎ目が飛び出ないようにと、耳と目を押さえた。 近所の人と一緒に竹やりを持ち、わら人形を突き刺す訓練もした。空襲による火事を想定し、バケツリレーも練習した。日本が負けるなどありえないと信じていた。典型的な軍国少女だった。 1942年になると、長崎市でも空襲警報が出されるようになった。敵機に見つからないようにと、元山さんは夏場でも黒い長袖を着せられた。好きな赤い服は着られなくなった。 家財道具を田舎に避難させていたため、選べるほどの服もなかった。一度だけ、自分の着物を仕立て直した服を学校に着ていった。花の柄が入ったカラフルなものだった。先生から「そんな服しかないんですか」と怒られた。 家の窓には黒いカーテンをはり付け、電灯のかさを黒い布で覆った。少しでも光が漏れると、空襲の標的になるとして、近所から「非国民」と言われた。暗がりの中、好きな読書もできなかった。 43年、鶴鳴高等女学校(現・長崎女子高校)に入学。授業では、包帯の巻き方や担架で人を運ぶ方法を練習した。近くに負傷者が出たら、すぐに治療できるようにと赤チンや綿棒、ハサミを非常袋に入れて持ち歩いた。「青春のまっただ中を戦争に奪われた。友達と遊ぶことすらできなかった」 高等女学校時代、元山さんは勤労奉仕に明け暮れた。1年生だった1943年、教室で水兵の帽子のふちを作った。2年生になると、自宅近くの工場で乾パンを作り、袋詰め作業をした。戦況が厳しさを増した45年5月ごろからは、香焼の軍需工場に動員され、渡船で通った。 工場では手投げ弾を作った。木枠に砂を詰め、手投げ弾の型を押し込み、くぼみを作る。そこへ溶かした鉄を流し込み、弾体を作った。真っ赤な鉄の火の粉が飛び散り、やけどをする女学生も少なくなかった。鉄が冷えると、男の人がヤスリで磨き、火薬を入れて完成させた。「お国の役に立っている」と信じ、誰もが一生懸命作業した。 8月9日は体調が悪く、元山さんは初めて工場を休んだ。母と長姉と3人で、片淵町の自宅(爆心地から2・8キロ)にいた。居間の畳の上で横になっていると、朝から鳴っていた空襲警報が解除になった。母が「安全なうちに便所に行っておこう」と居間を出た。その直後、稲妻のような光が走った。 元山さんは、すさまじい爆音と光に包まれた。「焼夷弾か」と思った瞬間、そばにいた長姉がとっさに元山さんを押し入れへ押し込んだ。 どれくらいたったか、その間の記憶はない。気がつくと、無意識のうちに学校で何度も訓練した耳と目を押さえる姿勢をとっていた。ガラス片が壁にすき間なく突きささっていた。畳の上もガラスだらけ。長姉も元山さんに続き、押し入れに頭から飛び込んだという。はいていたもんぺは焼け、尻にやけどを負っていた。 母の姿が見えず、姉と2人で何度も「おかあさーん」と呼んだ。しばらくすると、母が左耳の後ろの傷を押さえ、「やられた」と居間に戻ってきた。便所のドアのガラス戸が割れ、破片が飛んできたという。10センチ以上切れてパカッと開き、血がしたたり落ちていた。元山さんは母の傷口にガーゼを切らずに当て、包帯を巻いた。 母は、近所の人に連れられて病院へ向かった。長姉は「家を守る」と言い、「一人で逃げなさい」と、元山さんを促した。元山さんは、いった大豆や米、三角巾をリュックに詰め、防空ずきんをかぶって外に出た。周りは既に避難し、誰もいなかった。 行ったことはなかったが、近くの山、城古趾をめざした。途中の防空壕は避難者であふれ、入れなかった。飛行機の音が聞こえる度に、木の下に身を潜めた。何時間か歩き、頂上付近に着いた。だが、そこの防空壕も人でいっぱいだった。 元山さんは壕のそばに一人でたたずみ、空を見上げた。真っ赤な太陽が輝いていたが、熱も光も感じられない。肉眼では赤い太陽を見た覚えがあるのに、なぜか黄色い太陽が記憶に強烈に刻みつけられている。どうしてかはわからない。 辺りが暗くなった。元山さんはおなかがすき、家族に会いたくなった。山を下りることにした。途中まで来ると、心配して迎えに来た長姉と会えた。 元山さんが長姉と自宅に戻ると、病院から戻った母が待っていた。まもなく、父と次姉も勤め先から帰ってきた。ところが、十八銀行に勤めていた3番目の姉は帰宅しなかった。 3番目の姉は翌日、銀行の分厚い扉の下敷きになって気を失っているところを助け出された。腰を痛めていたが、命に別条はなかった。だが、戦後も稲光がすると怖がり、押し入れに逃げ込んだ。 長姉の夫は茂里町の製鋼所に勤務していた。8月9日は休みだったが、同僚の代わりに出勤し、戻ってこなかった。長姉と父は毎日、病院や遺体安置所を探し回った。長姉の夫が原爆投下直前の9日午前に話をした同僚を探し当てたが、その後、どこで被爆したかはわからなかった。1週間ほどたったころ、長姉は髪が抜け始め、体調を崩し、探すのをあきらめた。長姉の夫は「自分が死ぬ時は誰にも見られたくない」と言ったことがあった。その言葉通りになってしまった。
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