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紙面から from Asahi Shimbun

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ナガサキノート
青い海と空に励まされた 美輪明宏さん (1935年生まれ)
(新聞掲載は2009年8月)

写真 自宅で被爆体験と戦争について語る (東京都世田谷区、御堂義乗氏撮影)

 45年8月9日午前、佐古国民学校(現・長崎市立佐古小学校)4年生だった美輪さんは自宅2階で、夏休みの宿題の絵を描いていた。

 我ながら良い出来だと思った。「張り出された時、どう見えるだろう」。確かめたくて、勉強机から数歩下がった。その時、世界中のマグネシウムを全部たいたような光が走った。目の前の明暗が一瞬、逆転した。

「こんないい天気なのに雷?」。同じ部屋で布団の手入れをしていたお手伝いの女性、清ちゃんに尋ねようかと思った瞬間、地響きがした。ガラス窓が割れ、瓦が降ってきた。清ちゃんに「こっちへ」と言われ、布団に潜り込んだ。

 そこで初めて、ウワーンとうなるようなB29の爆音が聞こえた。それが遠ざかり始めたころ、空襲警報が聞こえだした。

「逃げましょう。また敵機が来るかもしれないから」。清ちゃんに促され、美輪さんは1階に下りた。兄の安宏さんが柱の下に倒れていた。けがはなく、3人で大徳寺(西小島1丁目)の下に掘られた防空壕をめざした。裸足で逃げたのに、けが一つしなかったのが不思議だった。

 船大工町の福砂屋本店近くで、異様な光景を目にした。荷車を引く馬が倒れ、すぐ脇で、馬方のおじさんがピンピンと跳びはねていた。フライパンの上でいった豆のような動きだった。「やけどして痛かったのか、発狂なすったのかわからないけど、それを見て怖くなって、パーッと逃げたんです」。安宏さんには、その記憶はない。ただ、ほこりや煙がもうもうと立ち込め、方向を見失っていると、美輪さんが「兄ちゃん、こっちだ」と先に立ち、壕への道を見つけたことを覚えている。

 壕の中では、若い女性が「あの人が死んだら生きておられんとよ」と泣きわめき、外に出ようとして取り押さえられていた。恋人が長崎医科大にいるらしかった。そのころには壕にも「浦上方面が全滅したらしい」と伝わっていた。

 防空壕にいると、美輪さんの父がやって来た。戦時下で水商売を廃業後は金融業を営み、浦上へ集金に行っているはずだった。だが、さぼって、茂木に魚釣りに向かっていたため、難を逃れた。

 その日のうちに、美輪さん一家は、父の知人宅のある郊外の田手原町へ避難することにした。

 その道すがら、美輪さんはいきなり腕をつかまれた。目をやると、建物の下敷きになった人が助けを求めていた。驚いて振り払うと、その人の肉がズルッとむけ、腕にくっついた。「あれは……。思い出すのも嫌……。地獄ですよ……」。美輪さんはつらそうに話し、顔をゆがめた。

 多くの人たちが、市街地から山を越え、郊外へ向かっていた。その途中、ある下宿屋の前で、そこの娘と学生2人が、リヤカーに枕を1個だけ積んで、ぼうぜんと立ちすくんでいた。

 安宏さんは、避難する時の美輪さんの様子をこう語る。「何遍も立ち止まり、燃える長崎を見ては、ため息をついていた」

     □

 一家は8月15日に玉音放送を聞くと、本石灰町の自宅に戻った。近所には、被爆してけがをした人が数多くいた。当時の様子を、自著「紫の履歴書」(水書坊)で、次のように書いている

。 《女の人が、よろよろと僕の方へ向かって歩いて来ます。顔は溶岩に流されたようです。「スイッセンガ、イズヲクダサイ」。火傷で無残にまくれ上がったため、巧く唇の合わさらない女の人が水を欲しがっていることがわかりました》

 数日後、樺島町の親類宅近くの病院前を通ると、髪が抜け、皮膚が焼けただれていた人たちが長い列をつくっていた。ハエに卵を産み付けられ、体中にウジがわいていた。それを取ろうと、やはり焼けただれた指が、のろのろと動いていた。

 美輪さんも髪が抜けるなど、被爆の急性症状に苦しめられた。貧血は、東京で52年にプロ歌手となった後も続いた。54年には、準レギュラーで出演していたラジオ局の廊下で何度も倒れた。目の前が突然、黄色くなり、赤くなり、暗くなる。「ああ、また始まった」と思うと、気を失った。

「原爆の影響だと思っていましたか?」と尋ねると、強い口調で答えた。「原爆だと思いたくないんですよ。周りで死んでいく人たちを見ているでしょ。自分も同じように死んでいくなんて思いたくなかったから。『原爆ごときにやられてたまるか』と思ってましたよ」。そのころ、「氷を食べ過ぎると、髪が抜ける」という迷信を聞き、それを信じ込もうとしていたという。それだけ原爆を意識していた証しでもあった。

「シスターボーイ」と呼ばれ、美しさをもてはやされた美輪さんだが、軍隊経験のある人から「戦争に行ったことがないんだろ」と絡まれることも多かった。そんな時は、こう言い返した。「ええ、行ってません。だけど、不思議ですね。米国が原爆を造っている時に、なぜ私たちは竹やりだったんですか。それが軍人の知能程度だったのですか」

 戦争や軍隊に対する見方は今も辛辣だ。09年7月30日のコンサートでも、こう話した。「憲法9条を改正するなんて馬鹿なやつがいたら、当選させてはいけませんよ。あるいは、条件をつけてやればいいんです。『まずあなた方から鉄砲を担ぎ、奥さんや娘を従軍慰安婦にして行くのならいい』と」

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「君は田舎者のくせに、でんとしているな」。美輪さんにそう言ったのは、作家三島由紀夫(1925―70)だ。美輪さんは応じた。「何言ってんですか。長崎は400年前から開国して、江戸から蘭学の勉強に来てたんですよ。そちらこそ、関東の田舎者でしょう」

 長年親交のあった三島は、こうも言った。「長崎出身でなければ、君は存在しなかっただろうな」

 生まれ育ち、原爆に遭い、15歳で後にした故郷について美輪さんは、18ページで取り上げた自作の「ふるさとの空の下で」で、こう歌う。

 ♪この長崎の青い海 この長崎の青い空が いつも励ましてくれたんだ

(伊東聖記者 1971年生まれ)