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紙面から from Asahi Shimbun

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ナガサキノート
青い海と空に励まされた 美輪明宏さん (1935年生まれ)
(新聞掲載は2009年8月)

写真 自宅で被爆体験と戦争について語る (東京都世田谷区、御堂義乗氏撮影)

荘厳な鐘の音が響き、緞帳が上がった。

 明るく照らされたステージに、美輪明宏さん(74)が登場した。千葉県市川市で2009年7月30日に開かれたコンサート。ラメ入りの青い衣装に身を包み、叙情歌「おぼろ月夜」、喜納昌吉さんの「花」、そして「愛の讃歌」などシャンソンの数々を歌う。凝った照明で、背景が次々に姿を変えていく。夜空や花畑、パリの街中……。美輪さんは曲中の主人公を演じるように歌う。

 テレビでの人気を反映してか、客席を埋めた約2千人には若者も目立った。曲の合間には軽妙なトークで会場を沸かせる。「最近の歌は音楽でも何でもない。ラップだかゲップだか知らないけど」「人間、あんまり美しすぎてもだめ。ちょうど皆さんぐらいがいいんですよ」。一方で、こんな話も口にした。「8月が近付いています。戦争の経験者として話しておきます」

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 長崎市出身。海星中学校を卒業後、15歳で東京へ。国立音大付属高校を中退し、16歳でプロ歌手として活動を始めた。以来、半世紀以上にわたって、歌手、俳優、演出家として活躍してきた。

 シンガー・ソングライターの先駆けとも言われる。「ヨイトマケの唄」は1965年に大ヒット。「父ちゃんのためなら エンヤーコーラ」の印象的なフレーズで始まり、愛する子どもや夫のために工事現場で汗を流す母親の無償の愛を歌った。今なお多くの歌手にカバーされ、歌い継がれている。

 コンサートでは、この曲を歌う前、64年前の長崎での記憶を語った。

「原爆の時、子を守るように抱え込んで死んでいた母親がごろごろ転がっていましたよ。これこそが無償の愛でしょう」

 当時10歳。長崎市本石灰町(爆心地から南東へ約3・9キロ)の自宅で被爆したが、けがはなかった。だが、爆心地近くの山里町(現・平和町)には、祖母らが住んでいた。周囲の大人たちに「行ってはいかん」と言われたが、心配でたまらず、6日後に避難先で玉音放送を聞いた後、一人で祖母のもとへ向かった。

 そこは美しい天主堂が立ち、花畑が広がる、風情のある街並みのはずだった。だが、何もなかった。どこが祖母の家だかもわからなくなっていた。焼け焦げた遺体が、がれきの中で放置されたまま残っていた。「この世の終わり。人類が滅亡した世界のようだった」。なすすべもなく、家に戻った。

 美輪さんが作った歌には、原爆や反戦をテーマにしたものも少なくない。「あの悲惨な光景が全部、頭にこびりついている。それが、私の歌作りの原点になっている」

 そうした曲の一つが「ふるさとの空の下で」だ。「ヨイトマケの唄」が発表された時、レコードのカップリング曲だった。その中で被爆体験を元に、こう歌っている。

 ♪幾年前か忘れたが あの原爆の火の中を 逃げて走った思い出が 今さらながらによみがえる

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 美輪さんは長崎市の裕福な家庭に生まれた。父はカフェーや料亭、銭湯を経営し、繁盛していた。本石灰町のカフェーの近くには丸山遊郭があった。昼間はろくにあいさつも返さない男が、夜になると、女性にうつつを抜かし、ヘラヘラする。そんな姿をかいま見た。「建前を全部取り払った、人間の本質を見て育った」と振り返る。

 2歳上の兄の寺田安宏さん(75)は、美輪さんの少年時代について「利口で、目がくりっとして、大人からよくかわいがられていた」と話す。オルガンを弾いて歌ってばかりいたが、テストでは満点以外取ったことがなかった。

 太平洋戦争が始まって1年ほどたったころだろうか。美輪さんが言った。「この戦争は負けよ。竹やりを持って、どうやって飛行機が落とせるの」。ささいな言葉でも「非国民」と非難された時代。安宏さんは「大きい声で言うな」とたしなめた。

 ある日、カフェーのボーイに召集令状が来た。「三ちゃん」と呼ばれるハンサムな青年だった。美輪さんは女給らと、長崎駅へ見送りに行った。

 汽車が動き始めた。その時、小柄な女性が飛び出し、三ちゃんにすがりついて叫んだ。「死ぬなよっ。どんげん(どんな)ことがあっても帰って来いよっ」。三ちゃんの母親だった。そこへ、軍服を着た男が近づき、「馬鹿者。軍国の母は『死んでこい』と言うんだ」。襟髪をつかんで引きずり、投げ飛ばした。母親は鉄柱にぶつかり、頭から血が流れた。

「三ちゃんは、血だらけになったお母さんを見ながら出征していったんですよ」。回想する美輪さんの目に涙が浮かんだ。

 もう一つ、忘れられない光景がある。

 寒い朝、親類が経営する旅館の近くで、工場に向かう女子挺身隊員の点呼が始まった。セーラー服に、もんぺ姿の女学生たちが並んでいた。

 監督官が「おい、貴様」と、一人の女学生を指さした。「この戦時下において、軟弱な格好しとるとは何事か。脱げ!」。服を脱ぐと、黄、赤、紫などカラフルな毛糸の下着が現れた。監督官はそれをはさみで切り刻むと、胸を隠してしゃがみ込んだ女学生を殴り、けった。耳が切れ、口が切れ、鼻が切れた。「許して下さい、許して下さい……」。声が次第に小さくなった。

 女学生は、けががもとで亡くなったと聞いた。下着は、母親が「寒い思いをしないように」と、いろんな服をほどいて編み直したものだった。襟から少しだけのぞいたのを見とがめられたのだ。

 戦火は激しくなっていった。店先のマネキンは「退廃的」と撤去させられた。軍歌以外の歌は「不謹慎」という理由で禁止された。父は水商売を廃業させられた。モダンで国際色豊かだった長崎から色が消し去られた。

 45年6月に沖縄が陥落すると、運動場で女子たちが号令に合わせ、変な手付きを繰り返すようになった。米兵の上陸に備え、操を守るために、睾丸を握りつぶす練習だった。  美輪さんは冷笑しながら言った。「わかるでしょ。当時の日本がどれだけ馬鹿だったのか」

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