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知人宅の流し台。無駄がそぎ落とされた、とはこういうこと。 |
最近、玄米を食べるようになって、土鍋を購入した。それを機に、結婚以来愛用していた炊飯器を天袋にしまった。これは、私の人生のなかではちょっとした事件である。
時間短縮の便利さと、自分の五感を働かせて何かを作る経験を天秤(てんびん)にかけ、後者を優先するのが、自分の中で初めてのことだからだ。
まず1週間、白米を土鍋で炊いてみた。玄米への助走期間のつもりでトライしたら、1回目から大成功で、きのうと同じ米かと疑いたくなるくらい真っ白でつやつやのおいしいご飯が18分で炊きあがった。前後に30分の浸水、15分の蒸らしは必要だが、炊く時間そのものは炊飯器よりぐんと早い。火加減も弱火と極弱火をおぼえれば誰でも簡単に炊きあがる。時間も手間も思ったほどはかからなかった。
ところが、満を持して玄米に挑戦すると、30分以上の浸水後、極弱火で40分、ひと呼吸強火にしたあと、弱火で10分。その後、蒸らしが40分と約2時間で完成。圧力鍋ではないので、「ひと呼吸強火」のタイミングや長さ、加減がやや難しい。今のところ、毎日焦げるか、おかゆ状態のどちらかだ。お焦げならおいしいが、それを通り越して炭になっていることもある。
こどもは「もう、白いごはんにして」と懇願する始末だが、毎日炊きあがりが違うこの生活。なかなかどうしておもしろくて、そう簡単にやめられそうにない。
火加減やにおい、ぐつぐつ、しゅっしゅっという音を耳を澄ませてききわけたり、自分の五感をはたらかせて何かが仕上がる瞬間を待つのは、単純にとても楽しい。蓋(ふた)を開けたいのをじっと我慢して、待望のタイマーがなったら、そっと開ける。そのたび不思議と、焦げても水っぽくても、「わあっ」と思わず声がもれる。ふっくらつやつやの玄米が湯気の向こうに見える瞬間を、毎回新鮮な気持ちで喜べるのである。
今日はどうだろうと、ゆっくりしゃもじでかえしながら焦げをみつけて肩を落としたり、さて何がいけなかったんだろう、明日はあと5分長く炊こうかと作戦を練る。その過程がおもしろいので、今のところは土鍋というおもちゃを与えられた子どものように、夢中になっている。
それから、炊飯器をなくしたら、キッチンが予想以上に広くなった。来客に「台所、なにかすっきりした?」と言われることもしばしばだ。土鍋は炊飯器より一回り小さく、鍋と一緒に収納できるので炊飯器のスペースが空いたのである。
先日、知り合いの家に行って、コンロと流しだけのシンプルなキッチンスペースを見てあらためて思った。
「キッチンには、とりあえず火と水があればなんとかなるのだな」
家を設計するとき、キャベツの直径サイズまで測って、野菜置き場から引き出し式炊飯器置き場までフルオーダーのシステムキッチンをリクエスト。予算の3倍の見積もりがあがってきて青くなった経験のある私は、今、しみじみ思う。そんなすてきでゴージャスで、親切なキッチンが私の生活にはたして必要だったか、と。
負け惜しみでなく、いろんなすてきなアイデアが光るキッチンのCMをみるたび、自分には似合わないなと遠い気持ちになる。家を買う前はあんなにあこがれていたシステムキッチンなのだけれど。
人が考えてくれたいろんな機能やアイデアや工夫にさよならをして、自分の五感を頼りに何かを作る。すると、たとえば「おいしいご飯が炊けてうれしいな」と、今まで気にも留めなかったあたりまえのことに感謝できたり、感動できるようになる。「なくてもいいもの」がそぎ落とされると、空間も広くなる。
あしたこそ、もっちりふっくらのおいしい玄米ご飯が炊けますように、なんて今まで祈りもしなかったようなことをまじめに祈ってみたりもする。そんな新米土鍋生活をおくっている。