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―最近見たなかで印象的だったカフェのトイレから―
なんてことのないビルのトイレを、粗削りでありながら居心地よく改装している。トイレマニアの私のなかでは、「好きリスト」にランクイン。 |
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最近見たなかで印象的だったカフェのトイレから |
電気炊飯器を押し入れにしまって3カ月が過ぎた。毎日、土鍋で白米を炊いたり、圧力鍋で玄米を炊いたりしている。
そんな生活をして小さな悦に入っているところに、田舎の両親が泊まりにきた。私は勇んで早起きをし、土鍋でご飯を炊いた。
「どう? ふっくらして、つやつやでおいしいでしょ」
「……うん」
「あれ、固かった?」
「いや……、ちょっと、水分が多過ぎかもしれんなあ」
「蒸らしが足りなかったかな、ごめんごめん」
何か、奥歯に物が挟まったような言い方をする父に対して、母は一刀両断、もっと辛辣(しんらつ)である。
「あたしは炊飯器で炊いたご飯の方がいねぇ。炊飯器、出して。お昼はそれで炊いたのが食べたいから」
ためしに、夫にきくと、いやこれが最高にうまいと言う。私も、土鍋で炊いたほうがぱさつかないし、ふっくら炊きあがるし、どうひいき目に見てもこちらのほうがおいしいと思っている。
正解などないが、両親は私より二十年以上長く、炊飯器を使っている。炊飯器で炊いた味や固さに慣れ親しんでいるから、土鍋の味がおいしく感じられないのではないだろうか。ご飯は毎日のことだから、習慣からくる嗜好(しこう)の決定が多い。
いつもマイルドセブンを吸っている人が、キャビンを吸うとどうも違うといった類の違和感に似ているのでは。
習慣というのは怖いものだなあと思いながら、ふと気が付いた。私は、鰹や昆布、煮干しでだしをとると、どこか物足りなく感じてうまみ調味料をほんのひとさじ足してしまうことがよくある。
どこが、と言われると明確に答えられないのだが、いつもうまみ調味料を使っているので、天然だしでの味だけではなんだかしっくりこない。だしの取り方がへたなのかと、本を見ながらいろいろやってみたが、やっぱり最後にえいっとばかりにひとさじを入れてしまう。それを入れないと落ち着かない、おまじないみたいなものだ。
天然だしが物足りないなんて書くのもはばかれる、日本人として情けない話である。
これも習慣からくる嗜好、惰性によってつくられた味覚の癖かもしれない。
だから、小さなうちから本物の味覚を体験させることは大事なのだ。子どもにも養殖でなく天然のウナギを食べさせろということではなく、少し手間がかかっても、だしは料理に合わせて昆布や鰹、煮干しからとったほうが本当のうまみがわかるし、土鍋でじっくり炊いたほかほかの白米の甘さを知っておいたほうが、知らないよりはいい。
電気炊飯器で炊いたご飯は、ボタンひとつでいつも同じ安定した結果が得られるように作られているから、炊いた人によって味が変わることはない。土鍋は、火加減、水加減、炊く時間も炊く人によって微妙に変わる。(ときには炊く人の気分によっても変わる!)
そういうものが「今日の母の味」であり、結果的に「家庭の味」、「習慣によってつくられた味覚」につながるので、台所に立つときは、ほんの少しばかり気持ちをしゃんとせねば、と思ったりもするのだ。