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子ども部屋のテレビ。ゲームには使うが、なぜかここで番組をみることはない |
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リビングのテレビ。30インチから14インチに変わった |
ある記者の人が、「テレビについて取材をさせてほしい」と言ってきた。かつて書いた「テレビが壊れた」という本欄を読んでの依頼だった。
「テレビがなかったのはほんの3カ月ほどで、そのあと買ったんですよ」と申し上げたが、それでもいいとのこと。その顛末(てんまつ)を伺いたいとおっしゃる。
そこで、その3カ月間のあとさきのことをあらためて思い起こしながら、テレビについて話した。話しながら、自分でも初めて気づくことが多くて驚いた。それほど、テレビは私の日常生活に空気のようにとけこんでいるということなのだろう。
実際、リビングにテレビがないのは3カ月ほどだったが、大人が先にギブアップしたと、すでに本欄にも書いた。案外、子どもたちは、ないならないで平気だったのだ。ひと昔前だと、テレビを見ていないと友達と共通の話題にのれなくて、仲間はずれになるのでは、というつまらない危惧(きぐ)があった。今の子は、テレビは娯楽のほんの一部で、ゲームや携帯電話やパソコンや、もっとほかに興味のある楽しいことがたくさんある。テレビ番組が、話題の中心だった頃とは明らかに時代が違うのである。
結局、我が家では、夫がニュースやスポーツ番組への欲求に負けて、購入に至った。
だが、そこから現在までを振り返ってみると、テレビが壊れる前の時期より、ぐっと視聴時間が減っている、ということに気づいた。
まず、土日はほとんど見ない。平日でも、何曜日の「○○」と、見たい番組名を限定して、見るようになった。
つまり、だらだらと、なんとはなしにテレビをつけているというような以前の習慣がなくなったのだ。
それはおそらく、テレビがない3カ月間の心地よい静けさを、「耳」が覚えているのだと思う。それまで、気にもしなかったテレビの音が、今は「うるさい」「騒々しい」と癇(かん)に障るようになった。おもしろい番組以外は、できれば電源を消しておきたい。
そういう感覚は、テレビなし生活以前はなかった。なくなって、静かな部屋で暮らして、「あれはうるさいものだったな」という印象だけが深く、自分の感覚にすりこまれたのだと思う。
育児の場面で、テレビの存在に悩んだら、一度、強制的にテレビがない日を何日か作るとよいかもしれない。すると、家族みんなが静寂という快適さに気づく。やがてテレビをいつでも見ることができるようになったとしても、「選択する習慣」が自然に身についていることだろう。消す自由、音のない良さに気づいた上で、それでも見たい番組を選ぶようになるのだ。
大上段に書いているが、これ、もともとテレビが嫌いな人には、「何をいまさら」かもしれない。テレビ大好き人間だったからこそわかった実感であると断っておく。