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最後の砦、からっぽのひきだし |
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このキャビネットのひきだしのひとつが上の写真 |
仕事場など、足の踏み場もないほどきたないし、掃除が苦手な私だが、リビングだけは、とっさの来客でも片づけやすいように、少しばかりくふうをしている。
それは、引き出しを二つカラにしておくことだ。キャビネットの大きくて深い引き出し、プラスチックの小さな3段引き出し、それぞれ1段ずつ空っぽにしている。
とっさの来客に、読みかけの本や雑誌やプリント類をぽいと放り込める大きな収納と、鉛筆やらハンコやらなんとなくテーブルの上に出ていた細かい物をほうりこめる小さな収納用というわけだ。
入れっぱなしにしておくと意味がないので、客が帰ったらすぐに空っぽの状態に戻すのが鉄則である。
このアイデアの良い点は、部屋が片づくというのもあるが、それ以上に、「我が家にはまだ空っぽの引き出しがふたつもある」という心の余裕をもてるところがいい。
引っ越し好きの私は、もしも家中の収納がいっぱいになってしまったら、息苦しくなって物を処分する前に引っ越しを決意するのではと、自分で自分が怖い。……と、それは冗談だが、まだ物をしまう場所がある、と思うと暮らしにも余裕ができる気がする。
だからといって、物を増やしてその引き出しを埋めるのではない。少しの余裕のために、物を買うときはつねに吟味してできる限りその引き出しだけは埋まらないように心がけておく。そうやって持ち物の量をいつも、無意識のうちに引き出し二つ分調節している。ここだけは空っぽにしておけば生活は快適という、最後の心の砦(とりで)みたいな存在である。
こう書きながら、小学校で習った道徳の教科書を思い出した。空腹の少年が何かの理由で歩き続けねばならない場面が描かれていた。苦しくて、おなかもすいていますぐにでも歩くのをやめたい少年のポケットには、あめ玉がひとつ入っていた。本当に苦しくてどうしもようもなくなったらあれをなめよう。そう心に念じ、どうにか歩いていくうちに、目的地にたどり着いたという話だった。あめ玉ひとつが心の支えだったのだ。
まったくシビア度が違うが、引き出し二つは私にとって少年のあめ玉と同じ。心の支え、つっかえ棒である。