香川忠夫さん
本因坊算砂(寂光寺蔵)
◆三コウの例 黒番ならばaかbのコウを取るしかない。白も次にcと取るしかなく、両者、際限なくコウ取りが続く
天正10(1582)年6月1日の京都・本能寺。織田信長が家臣明智光秀の謀反によって自害に追い込まれた「本能寺の変」の前夜、信長の御前で打たれた対局で珍しい「三コウ」が出現した。以来、三コウは不吉の前兆ともいわれるようになった――。囲碁愛好家の間では有名なこのエピソードは果たして事実なのか。最近の研究からたどってみる。
■富山の愛好家検証「創作だ」
「三コウ伝承」については、もともと疑念の声があった。本能寺で対局したとされる寂光寺の僧日海(にっかい)(1559〜1623)=のちの初代本因坊算砂(さんさ)=について調べた富山県滑川市の香川忠夫さん(74)は5月、東京の日本棋院で開かれた囲碁史会で、この伝承をバッサリ「創作」と切り捨てた。
現在の“囲碁史”は1904(明治37)年に刊行された「坐隠談叢(ざいんだんそう)」に大きく影響されている。香川さんは「坐隠談叢」のもととなった史料を調べるために、さらに古い時代の文献にあたった。
■260年後に突然記述
研究の中心に置いたのは江戸時代に家元関係者がまとめた三つの史料。着目点は以下のとおりだ。(1)本能寺の変から120年以上たった「伝信録」(1706年)に算砂と信長の関係がまったく書かれていない(2)180年後の「名人碁伝」(1762年)には算砂が本能寺を訪れたことが記されている(3)260年以上たった「爛柯堂(らんかどう)棋話」(1849年)になって、「本因坊(算砂)と利玄坊の囲碁を御覧あるに、その碁に三劫(こう)というもの出来て止(や)む。拝見の衆、奇異のことと思いける」などと三コウの記述が現れた。信長、秀吉、家康が算砂に5子の手合だったともある。「『信長公記』にも囲碁の記述はなく、公家の日記などにも見当たらない。18、19世紀に突然出てくるのはおかしい」と香川さん。
算砂は信長、秀吉、家康に愛顧され、信長が「名人」と称賛したとも伝えられる。だが、香川さんは「信長、秀吉との関係は確実な史料に基づいておらず、すべて虚構」と主張する。
秀吉については、天正16(1588)年に算砂に出したとされる朱印状の写しが「伝信録」にある。扶持(ふち)の給付や碁の法度について記述されたその朱印状の写しを、香川さんは「偽書」と指摘する。それ以前に朱印状の記録はなく、文言にも不自然な点があったためという。
■家元の競合背景か
秀吉研究で知られる三鬼清一郎・名古屋大名誉教授は「囲碁に限らず、秀吉が特定の個人に権益を与えたなどという、信頼にたる史料は見当たりません。当時、権力者の名を借りた偽物はたくさん作られた。同時代に記録があるかが重要で、秀吉の死後100年もたっての写しでは確かに疑わしい」と語る。なお、算砂と秀吉が同じ場所で別の人と碁を打ったという記録ならば京都・相国寺鹿苑院院主の日記「鹿苑日録」にある。
家康は大名や豪商と碁を楽しむ一方で、本因坊ら四つの家元や「御城碁(おしろご)」創設の基盤を築いた。香川さんは、囲碁が隆盛期を迎える江戸時代に「虚構を生んだ」背景があると考える。
「家元が競い合う時代にあって、本因坊家に箔(はく)をつけようと作り話を書いたのではないか。それにいろんなものが付け加わって現代に至ったのでしょう」
大の囲碁好きという香川さんは学生時代に「坐隠談叢」を読み、その面白さに引かれると同時に、事実かどうかという疑問を抱いていた。「日本の歴史の中で、囲碁史が取り残されているように感じます。今回、算砂について、史実と小説とを切り分けることで、囲碁界に問題提起をしたかった」と語る。(伊藤衆生)
■キーワード「三コウ無勝負」
互いに解消することのできないコウが三つ生じ、延々と取り合う形になった場合は無勝負になる。タイトル戦で現れたのは98年の名人戦第4局(趙治勲―王立誠)のみ。無勝負となり、次に第5局が打たれたため、この年の七番勝負は「第8局」が準備されていた(結果は4勝2敗1無勝負で趙名人の勝ち)。現在、プロの対局での三コウ発生率(四コウを含む)は9千局に1度。