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130 朝日新聞
朝日新聞創刊130周年記念事業
- 朝日新聞 2008年6月30日掲載 -

明治・大正期の記事は…五輪・中学野球、こう伝えた

 この夏、多くのみなさんが夢中になるスポーツイベントが二つあります。オリンピック第29回北京大会と第90回全国高校野球選手権記念大会です。近代五輪は1896(明治29)年に、今の高校野球にあたる中学野球は1915(大正4)年に始まりました。大正末にようやくラジオ放送が始まった時代に、ニュースを伝えるのはもっぱら新聞でした。そのころの五輪と中学野球はどのように報じられていたのでしょうか。朝日新聞は創刊130周年記念事業の一つとして明治・大正期紙面のデータベースづくりを進めています。それらの紙面から明治末~大正のスポーツワールドをちょっとのぞいてみましょう。(福井仁)
 〈引用文は、漢字の字体と変体仮名を改めた以外は原文のまま〉

五輪

「三島選手は百尺競争に加つて利あらず」(1912年7月9日付)

日本、第5回大会に初参加

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ストックホルム五輪で三島弥彦が着たユニホーム=
秩父宮記念スポーツ博物館

 近代オリンピックはアテネで始まったが、日本が登場するのは16年後の第5回ストックホルム大会からだ。
 1911(明治44)年9月23日付で「国際オリンピツク大会 選手予選の大運動会」という見出しの記事がある。
 「国際オリンピツク大会の第五回は明年瑞典(スウェーデン)国ストツクホルムに於(おい)て開催する都合にて同国当事者より我国の委員たる東京高等師範学校長嘉納治五郎氏に対し我国民の該大会に参加せんことを熱心に希望し」
 国際オリンピック委員会(IOC)委員だった嘉納は五輪参加の勧誘を受けて準備を進め、予選会を経て、翌年2人の選手が選ばれた。「短距離選手として東京帝国大学法科生三島弥彦長距離選手として東京師範学校地理歴史科金栗四三の両名を派遣することに決したり」(2月19日付)
 記事によると、予選会で三島は100メートルが12秒、400メートルが59秒6、金栗のマラソンが2時間34分だった。金栗の記録は当時の世界記録を大きく上回ったと騒がれた。
 5月16日に出発した三島、金栗らはシベリア鉄道に乗り、現地には6月2日に着いた。大会には28カ国、2400人が参加した。日本選手団は嘉納団長と大森兵蔵監督を含めて総勢4人だった。
 「オリムピック開会式(七日午後二時半ストツクホルム特派員発) 十一時瑞典国王スタヂアムに臨御あり各国選手行列を行ひ音楽を奏し喝采(かっさい)場に満つ皇太子演説し国王開会を宣す我国にては三島選手旗を捧げ金栗は記章を帯ぶ加納(嘉納)大森田島博士列に入れり」(7月9日付)。これが開会式の記事の全文だ。
 まず三島の100メートル予選があった。記事は「三島選手は百尺競争に加つて利あらず」(同日付)とだけ書いた。1次予選での落選だった。200メートルも予選落ち、400メートルは準決勝で棄権した。
 期待は20歳の金栗のマラソンだった。レースは14日午後に始まった。「マラソン選手八十四名出発す天気頗(すこぶ)る晴朗、雲翳(うんえい)を見ず、暑気非常に強けれど金栗選手大元気なり在留日本人は皆沿道の要所要所に立並び手に手に東京朝日新聞寄贈の応援旗を打振り金栗選手を疾呼激励す」(16日付)
 猛暑の中、ゴム底靴の各国選手の中でただ一人足袋をはいた金栗は二十数キロで意識を失い、途中棄権した。
 「金栗落伍(らくご) 金栗選手は邦人の頗る勢援(せいえん)に勉めしも遂(つい)に途中にて落伍し全行程を終る能はざりき」(16日付)
 聞き書き「金栗四三伝」(講談社、1961年)によると、嘉納は「日本のスポーツが国際的なひのき舞台に第一歩を踏み出した。何事も始めからうまくいくことは少ない」と慰めたという。

「大競技場を埋むる観衆 熊谷の神技に驚嘆す」(1920年8月22日付)

第7回大会で初メダル

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五輪史上、日本のメダル第1号となった
熊谷一弥の銀メダル=秩父宮記念スポーツ博物館

 ベルリン大会は第1次世界大戦で中止になった。1920(大正9)年の第7回アントワープ大会には29カ国2600人の選手が参加した。日本は陸上、水泳、テニスに15選手を送った。期待のマラソンは4人だった。
 選手団は5月14日、横浜港から船に乗った。「桟橋は数千の見送人でスツカリ埋められて了(しま)つた……万歳と万雷の如(ごと)き拍手を浴び乍ら選手を乗せたコレア丸は静かに動き出した」(15日付)
 現地入りは8月3日。名倉特派員がそれを伝える。「日本選手は三日夜安府(アントワープ)に到着す……直ちに日本食の夜食を取り十時寝に就けり」(7日付)
 この大会で日本初の五輪メダルとなる銀メダルをテニスシングルスの熊谷一弥が得る。銀行員としてニューヨーク駐在中の熊谷は18年の全米選手権ではベスト4だった。
 陸上や水泳は苦戦したが、熊谷は順調に勝ち進む。「大競技場を埋むる観衆 熊谷の神技に驚嘆す 敵も味方も我を忘れて大喝采」(22日付)という見出しが躍った。
 熊谷はニューヨーク駐在の商社員柏尾誠一郎と組むダブルスも勝ち進む。マラソンは金栗の16位が最高位で、期待は一層高まった。
 シングルス決勝。熊谷は第1セットを先取したが、続く2セットを奪われ、第4セット4対6で力つきた。「独り庭球競技に気を吐きつつありし熊谷氏は二十三日午後南アフリカのレーモンド氏と庭球優勝単試合を行ふ……熊谷氏は二等賞となりて氏としては頗る不成績なりしは遺憾千万と謂(い)ふべし」(26日付)
 試合後、熊谷は写真撮影やサインを求める「淑女」たちに囲まれ場内から動けなかったという。翌日のダブルス決勝で熊谷柏尾組はもう一つの銀メダルを獲得した。

パリ大会には19選手出場

 第8回パリ大会は関東大震災の翌年の1924(大正13)年。44カ国3千余選手が参加した大会に、日本は陸上、水泳、テニス、レスリングに19選手を送った。マラソンには五輪3度目の金栗ら3選手を選んだ。レスリングは米ペンシルベニア大に学ぶ内藤克俊だった。
 朝日新聞は陸上の予選会や代表選手の顔ぶれを大きく報道した。「何処(どこ)まで勝てるか 巴里(パリ)へ行く選手の力 興味ある予想」と題した4回の連載(4月15日付~18日付)で世界と比べた日本選手の力量を分析するなど、スポーツとしての五輪報道の色彩が出てきた。
 開会式は7月5日。「巴里東口特派員五日発 日本国名標識板は小野田選手(水泳)国旗は金栗選手が如何(いか)にも軽げに捧(ささ)げ役員連も粛として続いた。選手は麦桿(むぎわら)帽子に赤リボン赤ネクタイといふ扮装(ふんそう)で頗る緊張した面持であつた」(7日付)
 マラソンは今回も不振だったが、レスリング・フリーフェザー級の内藤が日本3個目となる銅メダルを獲得した。水泳は800メートルリレーで宮畑虎彦、小野田一雄、野田一雄、高石勝男が4位入賞。高石は100メートルと1500メートルの自由形でいずれも5位に入るなど、昭和に入って水泳大国に躍進する芽生えを見せた。
 三段跳びの織田幹雄は6位だった。「代表選手中最も入賞の可能性が多いと云(い)はれているのは走幅跳、走高跳、ホツプ・ステツプ・ジヤムプ(三段跳び)の三競技に出場する織田である……三四等が悪くとも六等以内で確実に入賞するだらう」(4月17日付「巴里へ行く選手の力」)という予想が的中した。織田は4年後のアムステルダム大会の三段跳びで日本初の金メダルを手にする。

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