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朝日新聞創刊130周年記念事業
- 朝日新聞 2009年04月03日掲載 -

明治・大正の記事・広告データベース~庶民の生活リアルに

 朝日新聞の明治・大正期紙面データベースづくりは、来年春の完成に向けて着々と進んでいます。新聞には時代の生の動きがぎっしり詰まっていて、過去に学ぶには格好の教材です。今回は面白記事の第2弾。明治・大正の庶民が暮らしたのはどんな世の中だったのでしょうか。歴史クイズもありますので、数世代前の日本人が生きた時代の雰囲気に触れてください。(福井仁)
 (引用文は、漢字の字体、変体仮名、表現などを現代表記に改めました。原文の味わいは添付の写真でお確かめください)

不況

菊池寛「私も収入半減」(1925年4月)

 大正デモクラシー期は、長い不況に苦しんだ時代でもある。第1次大戦後の恐慌に加えて、関東大震災後の恐慌に見舞われ、先が見えないトンネルの中にあった。
 今の不況と同じように学生は就職難だった。「昨年までは、会社、銀行などが先を争って申し込んだ東京帝大卒業生の募集も、今年は人気の法学部にさえまだ申し込みがない。学生は大きな不安に心を痛めている」(1920〈大正9〉年10月10日付)
 庶民の暮らしも苦しい。1924年から25年にかけて、こんな見出しが続く。「寒空に上着一枚で学校通いの子供たち この十年にない不景気で火の消えたような労働者街」「想像にも余る惨めさ 『死』と隣り合わせの人々 歳末が迫り深刻に 不景気はついに生命さえ脅かす」「不景気のどん底に 惨めな労働者 空の弁当箱をぶらさげて」
 「菊池さんさえこの悲鳴 栄華を夢の文士連中」(1925〈大正14〉年4月24日付)という記事で、時の人気作家菊池寛がこう嘆いている。「私なども関東大震災直後と現在を比べると収入が半減している。印税収入は皆無だ。早く財界が好況になってくれないと」
 昭和の日本は、金融恐慌(1927年)、世界恐慌(1929年)などの荒波にもまれ、戦争への道を突き進んでいく。

くらし

東京中のハエ、全滅を(1925年8月)

 真夏の一日、東京市民がハエを追いかけ回した。
 1925(大正14)年8月15日、市が音頭をとった「ハエ捕りデー」。紙面には「東京中のハエ 全滅の意気で うしろ鉢巻きの全市民 飛行機も飛び出す騒ぎで」という見出しがついた。
 43万の全世帯に駆除薬を無料で配り、約2メートル四方のハエを一瞬で焼き殺すという「新兵器の火炎噴霧器」なども用意した。「各町では大太鼓をたたいて『ハエ退治』と触れ回った」。本所区(現墨田区)では賞品目当ての子供が前夜からハエを捕まえて早朝から区役所へ押しかけた。
 この一日で何匹のハエが捕れたのかは分からないが、直前に西神田署管内であった「ハエ捕り週間」では56万匹を退治したというから、全市では相当な数になるだろう。

 

消費多いサケ

 大正の家庭はどんな食事をしていたのか。1922(大正11)年から翌年にかけて連載された「栄養料理献立表」からその一端がうかがえる。栄養研究所が薦める日替わりメニューだ。
 ご飯は一家3人で1日1升5勺(約1・6キロ)というから、現代人の3倍以上だ。食材は野菜が多く、魚は塩ザケやサケ缶詰が目立つ。電気冷蔵庫がなかったからだろう。紙面にはレシピもあるので、大正の味も再現できる。
 初回の献立はこうだ。
 【朝】キャベツのみそ汁 貝柱のつくだ煮【昼】塩ザケの刺し身 タケノコのおろし揚げ【夕】豚肉と野菜のカレー タケノコとワカメの阿茶羅(あちゃら)漬け
 次は季節ごとの主な献立。
 【朝】豆腐のみそ汁 コウナゴのつくだ煮【昼】ナスのひたし トウガンのあんかけ【夕】つまみ菜と油揚げのすまし 焼きナスのマヨネーズソースかけ 小アジの塩焼き(22年8月1日付)
 【朝】サトイモのみそ汁 ゴボウのから煮【昼】塩サバのみりん漬け、ジャガイモのごま油いため【夕】ダイコン炊き サケ缶詰のカツレツ(22年11月1日付)
 【朝】とろろ昆布のみそ汁【昼】切り干しの煮付け【夕】馬肉うどん(23年2月7日付)

法令

混浴×フグ×

 明治初期、「違式違(いしきかいい)条例」という、今の軽犯罪法に当たるものを各府県が作った。文明開化の中で、混浴や裸での外出の禁止など、生活上の規制が盛り込まれた。記事にいくつかを見てみると。
 「夜間、無ちょうちんで自転車に乗る者はこれからは処分される」(1879〈明治12〉年3月9日付)。今の無灯火だが、ライトのなかった時代はちょうちんだった。
 「違式罪目をこう改正する 京都府知事槙村正直 何事によらず無益な出費をした者 暴れる性質のある牛馬を飼って人に迷惑をかけた者 フグを食べた者(干物は除く)」(79年9月2日付)
 「学校の先生が無届けで同郷の人を下宿させて罰金をとられ、今度は立ち小便をして5銭の罰金と大目玉を食らった」(79年11月27日付)

未成年も飲酒

 今は酒が飲めるのは20歳以上だが、大正までは違った。
 1922(大正11)年4月1日付の夕刊は「明日から お酒を飲むな 警視庁は不良少年退治」という見出しで未成年者飲酒禁止法のスタートを伝える。
 それまでは子供でも飲んでいた。1889(明治22)年に「13歳の少年が浅草公園のそば屋でそば7杯、酒を6合飲食したが、金がないので警察に突き出された」という記事がある。問題になったのは飲酒ではなく、無銭飲食だった。
 未成年者の喫煙禁止法ができたのは飲酒禁止法より20年以上早い1900(明治33)年だ。

教育

常識ない先生

 昔の学校の先生は威厳があったように思えるが、実はそうでもなかった。
 「教員試験で非常識暴露 地方応募者の成績を本日市が発表」(1921年9月23日付)。東京市が地方の現役教員の中から教員志望者50人を募ったところ、177人が応募した。
 学術試験では理科で「コペルニクスとは」との問いに、ほとんど満足な答えがなかった。常識試験でも「レーニンとは」の問いに「毒薬の名」との解答も。「デモクラシー」については「流行語なので、男子はほとんどはできたが、女子はまったくだめ。『精神疾患の薬』という答えもあった」という。
 「市は驚きあきれているが、かなり不成績でも採用する」と結んでいる。ロシア革命も、「流行」のデモクラシーも知らない先生は新聞を読んでいなかった?

明治に予備校

 1887(明治20)年5月6日、大阪市の「予備学校」が生徒募集広告を出した。
 「高等中学をはじめ国立、府県立の学校に入りたい生徒のための学校」というのが宣伝文句で、今で言う予備校だ。
 高等中学校は、86年の中学校令で全国に7校設けられた公立の旧制学校。後に高等学校と名を変え、東京大などの前身の一つとなった。
 当時は高等教育を受ける学生はごく少数で、87年の全国の大学生は864人、旧制高校生1658人(文部科学省HPから)。予備校があっても当たり前の難関だった。

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