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130 朝日新聞
朝日新聞創刊130周年記念事業
- 朝日新聞 2009年12月03日掲載 -

 朝日新聞の明治・大正期紙面データベースは来年3月の完成を目指して、点検などの最終段階に入りました。この機会に、明治・大正の新聞に改めて脚光を当てようという展覧会を、東京大学明治新聞雑誌文庫との共催で、11月9日から20日まで朝日新聞東京本社で開きました。期間中には、作家荒俣宏さん、東大教授苅部直さんの講演もありました。2人のお話の要旨を紹介します。(福井仁)
 (引用文は、漢字の字体、表現などを現代表記に改めました)

事柄の関連知って想像力豊かに――苅部直氏

講演・明治新聞雑誌文庫と吉野作造

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かるべ・ただし 東京大学教授(日本政治思想史)。1965年生まれ。主な著書に「丸山眞男――リベラリストの肖像」

 東京帝大教授であった吉野作造が中心となった、東大明治新聞雑誌文庫(明治文庫)の設立をめぐる思想史上のドラマを紹介したい。
 吉野は西洋政治史を専門とするが、1916(大正5)年に「憲政の本義を説いて其(その)有終の美を済(な)すの途(みち)を論ず」という論文を発表し、政党内閣制と普通選挙の導入を主張して、大正デモクラシーの論客として有名になった。
 他方、21年の夏から幕末、明治期の歴史研究も始め、3年後に明治文化研究会を結成した。研究者のほとんどは宮武外骨ら在野の人物だ。

 研究会発足の少し前、24年2月に、吉野は東大を辞職して編集顧問として朝日新聞に入社したが、舌禍事件で4カ月後に辞めることになる。
 この事件が、吉野の明治文化研究の特徴を示してもいる。朝日新聞主催の講演会で、五箇条(ごかじょう)の御誓文について、明治政府が「窮余の結果」出さざるをえなかった宣言にすぎないと説いた。これは、歴史状況の中での政治家の選択を分析する、政治史家らしい見解と言える。しかし、右翼団体が抗議を始め、検察も起訴の動きを見せたため、退社に追いこまれた。
 吉野は東北出身で、戊辰(ぼしん)戦争での敗者の視点から、薩長中心、尊王論中心の明治維新観に強い不満を抱いた。通説を相対化することで、眼前の保守派勢力への批判を、歴史の叙述にこめたと言える。
 明治研究を始めた動機も、デモクラシーの主張と深く関連していた。大正の今は、民衆の「智徳」の水準が明治時代よりもあがり、人々は政治の主体として十分成長している。その変化を跡づけ、デモクラシー論こそが今や現実に即していると示そうとした。
 動機のもう一つは開国史の研究だ。論文「我国近代史に於(お)ける政治意識の発生」(27年)では、徳川時代の儒学思想の中に、西洋の自然法思想や国際法を受容する基盤があったと指摘する。そういう開かれた視野の可能性を日本の伝統思想は持っていた。
 吉野がこうした研究を始めたのは、第1次世界大戦ののち、国際連盟が発足し、日本国内でも労働者や農民の社会運動が盛んになったころだ。これに応じて吉野は平和主義を説き、さまざまな社会集団の活動に着目し、国家主権を相対化する政治像を唱えた。開国史の研究は、そうした関心とも重なっている。

 明治文化研究会が集めた史料は、社会、風俗、文芸、政治、法律など、幅広い分野にわたる。その寄贈を受けて明治文庫は発足した。博報堂の援助のもと、宮武が吉野に相談して、東京帝大法学部に設けられた。朝日新聞社長も設立時に援助したのは、吉野へのおわびの意味があったかもしれない。
 明治文庫が法学部にあるのは、法や政治もさまざまな文化の中の一つであり、社会の多種多様な活動と交錯しながら発展しているという考えに基づく。ちょうど、吉野の説いた政治像とも重なっているだろう。歴史を理解するだけでなく、現代の政治を考えるのにも、大事な視点だ。
 朝日新聞の紙面が自由に検索できるようになれば、多くの事件や話題の相互関連が、簡単にわかるようになる。歴史についての想像力を豊かにし、開かれた発想で現代を考えるのにも役だつだろう。それは、「開国」の歴史として幕末と明治をとらえた、吉野の仕事にも通じるものだ。
(11月16日、朝日新聞東京本社読者ホールで)

 <吉野作造> 1878~1933年。政治学者。思想家。民本主義を主張し、大正デモクラシーの中心となった。

 <東大明治文庫> 明治・大正期の新聞約2千タイトル、雑誌約7200タイトルを収集・保存している。正式名称は東大大学院法学政治学研究科付属近代日本法政史料センター明治新聞雑誌文庫。明治・大正期の朝日新聞データベース事業に監修などで協力している。

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