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朝日新聞歴史写真アーカイブ
朝日新聞創刊130周年記念事業

「共栄圏」の教育 サムライ描き一等賞 写真が語る戦争 歴史と向き合う

朝日新聞歴史写真アーカイブとは?

 朝日新聞創刊130周年記念事業の一環として、満州事変前後から敗戦までの間を中心にアジア各地で撮影された7万枚の写真の中から、厳選した1万枚をデジタル化したデータベースです。未来へ継承するデータベース「朝日新聞歴史写真アーカイブ」として、図書館向けデータベース『聞蔵(きくぞう)IIビジュアル』に2009年1月からコンテンツとして追加。 詳細はこちら(PDFダウンロード)

 ある日、海のかなたからやってきたニッポン。「大東亜共栄圏」の担い手として日本式教育を受けた占領地の子どもたちは何を思ったのだろう。

 1943年に撮られた写真の裏に、鉛筆で説明が書かれていた。
 《相撲場から飛び出して児童作品展入選を喜ぶ子供たち 左端がスータン君 ジャワ ジャカルタ千早学校にて》
 「これは私だ。コンクールで一等賞をもらった。日本人の先生から借りたサムライの絵を模写した」
 5月、インドネシア・ジャカルタ郊外の自宅で、スータン・ハラハップさん(77)は、63年前の記憶をたぐり寄せた。

 日本軍は42年、石油などの資源確保のため、オランダ領東インド(現インドネシア)に侵攻、占領した。まもなく軍政下で日本式の学校教育が始まる。陸軍第16軍の宣伝班は「モデル校」として「千早学校」を開いた。生徒には裕福な階層の子弟が多かったという。
 スータンさんは7年生に編入した。日本語の授業は毎日あり、ひらがなと片仮名を書けるようになった。毎朝、校庭に整列し、日の丸掲揚と君が代斉唱の後に「サイケイレイ」の声とともに、東京の「テンノウヘイカ」へ向かって頭を下げた。
 イスラム教徒なのに「現人神(あらひとがみ)」に頭を下げることに抵抗感はなかったのか――。
 「イスラムの礼拝は、頭を地面につける。テンノウヘイカには立ったままのお辞儀。許せる範囲だと自分に言い聞かせた」

 日本の新聞記者がやってきたからと、別の同窓生の家に卒業生17人が集まってくれた。海軍や国営企業で活躍したスータンさんのほか、外交官、大学教授、会社社長、航空会社など華やかな経歴の人たちだった。
 男性は剣道、相撲、教練、女性は長刀(なぎなた)、踊りの授業などを懐かしみ、「愛国行進曲」「海ゆかば」「愛国の花」など、当時習った歌のメロディーを口ずさんだ。
 学んだのは「規律」「他人に依存しない心」「時間を守ること」。占領下の負の部分は出てこなかった。
 日本の占領はインドネシア人にとってプラスだったのか――。
 「それはとても政治的で、答えにくい質問ね」。同窓会の幹事役、当時5年生の女児だったスサンティさん(74)は困った表情を見せた。
 ダルマワンさん(76)は「日本が義勇軍や警防団を造ったことは、独立につながった」とする一方で、「独立はわれわれが自らの力で獲得した」と力を込めた。
 小学5年生が使う社会科の教科書には次のような記述がある。《日本占領期にインドネシア民衆は大変な困難をこうむった。なぜなら日本はオランダよりも過酷な支配者だったからだ》
 日本占領下、何百万という農民が動員され、鉄道や飛行場建設などを強いられた。栄養不良の状態で重労働を課せられ、命を落とした人も多い。「ロームシャ」(労務者)は、苦難の体験を伝える外来語として定着している。

 ジャカルタ中心部の独立記念塔から約3キロ離れた千早学校の跡地を訪ねた。今は国立の小学校になっている。
 スータンさんは運動場の一角に立った。国内に「母校」の記録はなく、卒業生の記憶に残るだけだ。「この辺りに土俵があったんだ」。少し寂しそうに笑った。(翁長忠雄)

●協力・同化狙い、日本語教育に力

 アジアを欧米の植民地支配から解放して共存共栄する「大東亜共栄圏」を提唱した日本は、植民地や占領して支配した地域で、日本への協力や同化を進めるための教育を展開した。日本語教育が重視された。根底には、日本語学習を通じて日本人の精神や文化を習得できるという考えがあった。
 台湾、朝鮮といった統治が長期にわたった植民地と、傀儡(かいらい)国の旧満州国、太平洋戦争開始後の南方占領地域など、支配形態によって教育の内容や体制に違いがあった。
 総督府が置かれた台湾、朝鮮では統治開始以来、学校で日本語を教科に取り入れていたが、日中戦争開始(37年)以降、皇民化教育が徹底されるようになった。普通学校などで日本語が「国語」と定義され、日常生活での常用も図られた。朝鮮では、学校で朝鮮語を話す学生は見つかると処罰されるケースもあったという。
 旧満州国(32~45年)では、朝鮮族以外の他民族が通う小学校で日本語が教えられ始めたのは34年以降だった。
 37年に新学制が公布されると、日本語は外国語から国語へと変わり、漢語・モンゴル語・日本語の3国語のうち第1国語の資格を持つとされた。
 一方、フィリピン、マレー(現マレーシア)、スマトラ、ジャワ(同インドネシア)、ビルマ(同ミャンマー)など、太平洋戦争開戦後に占領した地域では、軍政の一環として、民心を把握し、協力者にするための文化・情報工作などに携わる宣伝班や宣撫(せんぶ)班による教育が行われた。
 ジャワで当時教材として使われた「ニツポンゴノホン」には次のような記述がある。《テンノウヘイカノ オンタメニ ニツポンジンハ ヨロコンデシヌ テンノウヘイカノ オンタメニ アジヤノタミハ イサマシク タタカフ》
 だが、支配地域の広大さや日本語教師の不足などから、日本語を国語として徹底するまでには至らなかった。日本語は「大東亜共栄圏の共通語」と位置づけられた。

 写真説明は、当時の記事や写真の裏側に書かれていた記述を、現代のかな遣いと表記に改めたものです。

写真

「朗らかな新生ジャワの子供たち」の見出しで1943年2月23日付の朝日新聞夕刊(大阪本社発行版)に掲載された写真。両手に吉田松陰と西郷隆盛の絵をもっているのが当時14歳のスータンさん

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千早学校の思い出を語るスータンさん。「絵を描くのが好きだった」=5月、ジャカルタで

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活気あがる石油の都パレンバン。炎天下に機体整備にあたる現地の青少年整備員=1943年11月、インドネシア・スマトラ島のパレンバンで
【注】同盟通信社(共同通信社の前身)から配信されたと見られる陸軍省検閲済みの写真

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“ヘイタイサン”はこうだよ……と、学校で覚えた日本語を落書きするインドネシアの子供たち=ジャワ島で

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中国北部に行く宣撫官の採用試験。終わって退出する受験者=1938年3月5日
【注】写真は大阪で実施された試験の会場。翌6日の大阪の紙面には、受験者176人から35人を選抜、東京で選ばれた65人とともに同月13日ごろ北京に赴く、とある

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元気で朗らかビルマの子供。技量伯仲、モン君、ウー君しっかり=1944年1月、ラングーンで
【注】現ミャンマー。子どもたちが紙のかぶとをかぶって相撲を取っている

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済南宣撫(せんぶ)班日語学校=1938年2月13日
【注】軍が占領地住民への同化工作の一環として設置した日本語学校の授業風景。同じ日に撮影されたとみられる別の写真には「済南市民の日語熱」と説明がある

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