航空兵器の急速な発達は、従来の戦争にあった前線と銃後の区別をなくしてしまった。第1次大戦で軍需品の生産力と戦意を奪うことを目的に始まった都市への無差別爆撃は、第2次大戦にかけてエスカレート。万単位の市民を惨殺するじゅうたん爆撃となり、原子爆弾の投下に行き着いた。
●自らの戦略、やがて本土襲う
1940年8月9日午後4時、蒋介石が臨時首都とした中国・重慶市街を猛煙と爆風が襲った。
旧日本海軍の九六式陸上攻撃機(中攻)による爆撃だった。海軍として同年26回目。蒋介石政権の戦争継続の意志をそぐため陸海軍が共同し、同年5月から従来の体制を改めた「百一号作戦」の一環だった。当時19歳の2等航空兵曹(86)は、電信員として高度約6千メートルの機中にいた。
偵察機や基地と暗号通信を交わし、迎撃機が来れば銃座につくのが任務で、地上を見る余裕はほとんどない。9機ごとの編隊の先頭の機にいる爆撃手に合わせ、各機は12発積んだ60キロ爆弾や焼夷(しょうい)弾を投下した。「機内に響くエンジン音で、地上の爆発音は聞こえなかった」と振り返る。
この日、軍が発表した航空写真の裏には「軍事施設及び政府重要機関を徹底的に爆砕」とある。しかし、元電信員は「爆弾は目標から数百メートルの範囲に散らばる。特定の目標を狙っても、10発落として8発か9発は当たらない」と話す。
38年2月から43年8月まで続いた重慶への爆撃は、中国側のまとめで218回に及び、空襲による直接の死者だけで1万1885人という。40年6月に重慶を訪れた米国の女性ジャーナリスト、アグネス・スメドレーは「毎日のように、人間のふくれあがった死体が揚子江をプカプカと流れてゆく」と書き残した。
都市への無差別爆撃は、第1次大戦末期に始まり、ロンドンやベルリンなどで大きな被害を出した。その後、満州事変初期の31年10月8日に日本軍による中国・錦州市への空襲、37年4月26日には内戦中のスペイン・ゲルニカへのドイツ空軍の爆撃が実行された。
だが、重慶への爆撃は、規模も期間の長さもけた違いだった。
「新訂版 戦略爆撃の思想」(凱風社)の著書がある軍事評論家の前田哲男さんは「臨時首都として各国の武官が駐在していた重慶への攻撃は、都市爆撃の効用を広く知らしめる結果を招いた」と指摘する。
蒋介石の航空顧問として重慶に滞在していた米陸軍将校のクレア・シェンノートは、爆撃の戦果をつぶさに観察、ヘンリー・アーノルド米陸軍航空隊司令官あてに40年、日本への焼夷弾攻撃を準備するよう進言した。
アーノルド司令官は当初は進言を退けたが、日米開戦後は方針を転換。45年1月20日、欧州戦線でドイツの都市への爆撃を指揮したカーチス・ルメイ少将を日本を攻撃する第21爆撃機軍団の司令官にした。
大型爆撃機B29は中攻の10倍を超える爆弾搭載能力があった。日本への空襲に使われたM69焼夷弾は、油脂をゼリー状にしたナパームを使っており、木造家屋に強力な火災を引き起こした。東京、大阪をはじめとする日本の多くの都市は、日本軍が進化させた戦術で焼き尽くされた。
ルメイはトルーマン大統領の原爆投下命令も実行する。45年8月6日に広島、同9日に長崎の上空で原爆が爆発した。空襲で日本国内に投下された爆弾は約16万トンに上り、民間人の犠牲者は全国で50万人を超えるといわれている。
都市への無差別爆撃という非人道行為は、極東国際軍事裁判では裁かれなかった。日本政府は64年12月、「航空自衛隊の育成に協力した」功績をたたえ、米空軍参謀総長になったルメイに勲一等旭日大綬章を贈った。
45年3月の東京大空襲で生き残った作家の早乙女勝元さんは「ボタン操作ではるか下の地上へ爆弾が落ちる無差別爆撃は、兵士に罪悪感が生じにくい。国家がその特性を利用する構図は、現在のイラクやアフガニスタンにもつながっている」と話している。(永井靖二)
東京大空襲と海外通信社の配信以外の写真説明は、当時の写真の裏側に書かれていた記述を現代のかな遣いと表記に改めたものです。




