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朝日新聞歴史写真アーカイブ
朝日新聞創刊130周年記念事業

響け1万枚 写真が語る戦争

朝日新聞歴史写真アーカイブとは?

 朝日新聞創刊130周年記念事業の一環として、満州事変前後から敗戦までの間を中心にアジア各地で撮影された7万枚の写真の中から、厳選した1万枚をデジタル化したデータベースです。未来へ継承するデータベース「朝日新聞歴史写真アーカイブ」として、図書館向けデータベース『聞蔵(きくぞう)IIビジュアル』に2009年1月からコンテンツとして追加。 詳細はこちら(PDFダウンロード)

「歴史写真アーカイブ アジア・戦前戦中編」1月26日始動

 朝日新聞大阪本社が戦時下に保管していた写真7万2千枚から1万枚を厳選し、オンラインで検索可能にした「歴史写真アーカイブ アジア・戦前戦中編」が、1月26日に供用を始めました。今回は、写真選定にご協力いただいた方々の「最も印象に残った1枚」を紹介します。
(永井靖二)

 この膨大な写真は、奈良県内に疎開させていたため敗戦前後の焼却処分を免れ、富士運送の倉庫(大阪市西区)に保管されていた。戦場のほか、市民の生活を記録した写真も多数含まれている。

 デジタル資料館を構築するため、本社は近現代史の研究者ら15人に「選考委員」を委嘱し、約1年半をかけてすべてを評価。評価の高かった1万枚について「歴史写真アーカイブ」として整備した。当面、図書館などに提供している記事データベース「聞蔵(きくぞう)II ビジュアル」から無料で閲覧できる。 問い合わせは、東京本社デジタルメディア本部へ。(お問い合わせフォームはこちら)

写真

元女優「李香蘭」・山口淑子さん
  中央の少女は、当時9歳の川島芳子さん。後に「男装の麗人」「東洋のマタ・ハリ」と呼ばれるとは、予想すらしていなかったろう。清朝の血筋を引きながら日本人として育てられた彼女は中国籍のため処刑され、中国人名で活動していた私は日本国籍が証明されて生き残った。戸籍という紙切れ1枚が、2人のヨシコの運命を分けた。時代の残酷さを感じずにいられない。<粛親王令息らの入京=1917年2月12日、東京駅>

 

「最も印象に残った1枚」

写真

山室信一・京都大教授(法制思想史)
  日本はインドネシアで「アジアの光・アジアの指導者・アジアの守護者」と謳(うた)う3A(三亜)運動を展開したが、その内実が西郷隆盛や神武天皇などを教え込むことであった。児童らの笑顔や歓声があふれているだけに、大東亜共栄圏の理念と実態の亀裂の陰影もまた色濃く迫る。<児童作品展の入選作=1943年2月、ジャカルタ>

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山本有造・中部大教授(日本経済史)
  加藤完治は、満州開拓移民の立案者。中国・黒竜江省チャムス郊外の大平原で、このような1コマが撮影されていたとは知らなかった。裏書きには、家屋を移民向け「模範住宅」と説明しているが、それがどんなものか、記録はほとんど残っていない。ご存じの方にご教示を得たい。<「模範住宅」と加藤完治=1933年、旧満州>

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槻木(つきのき)瑞生・同朋大名誉教授(中国近代社会史)
  児童の後ろに軍服と背広姿の日本人が見え、軍隊と異民族教育の結びつきがわかる。朝鮮風と日本風の服装の混在が興味深い。国境まで100キロほどの農村の学校に多数の子どもが集まっている実態は、日本の侵略以前から旧満州東部に高水準の教育基盤があったことを示す。<朝鮮人小学校の児童ら=1933年、旧満州・敦化>

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西村成雄・放送大教授(中国政治史)
  天安門は中国の政治権力と権威の中枢だが、ここに孫文の肖像と遺言を掲げている写真は見たことがなかった。これが日本の敗戦後は中華民国の蒋介石像となり、49年以降は現在まで中華人民共和国の毛沢東像になっている。中国の政治文化の様相を象徴的に示す、貴重な1コマだ。<孫文の肖像がかかる北京・天安門=1928年8月>

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赤澤史朗・立命館大教授(日本近現代史)
  中国の共産党ゲリラの根拠地を焼き払う掃討作戦を記録した写真は少なく、なかでも海軍陸戦隊のものは特に珍しい。この種の残虐写真には日時や場所が不明なものが多いが、このコマには明記されている。日本軍が中国で手を染めた戦争犯罪の直接的な「証拠」となり得るものだ。<共産党勢力の掃討=1940年3月、中国・海南島>

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戸高一成・大和ミュージアム館長(日本海軍史)
  「富士倉庫資料」の貴重さは、歴史的事件を記録した写真のなかに、普通の兵士や市民の生活記録が膨大に保存されている点だ。時間の経過とともに一番早く失われてゆくもの、そして一番失われてはいけないものは、その時代を生きた人々の「普通の」生活記録ではないだろうか。<眠る兵士と軍用犬=1938年6月、中国江西省>

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作家・半藤一利さん
  ノモンハン事件の初めて見る写真が、実に数多く含まれていた。これは39年7月のハルハ河渡河攻撃でソ連軍の戦車を多数撃破し、「黒煙数十条、あたかも日本海海戦の絵巻物の如(ごと)し」と記録された際のもの。翌8月にソ連機械化部隊が大攻勢に出て、関東軍は壊滅的損害を受ける。<捕獲したソ連戦車=1939年7月、ノモンハン>

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江田憲治・京都大教授(中国近現代史)
  中国共産党と中国国民党が内戦を始めた時期、共産党の影響のもと広州で蜂起した軍隊、労働者、農民らは「広州ソビエト政府」の樹立を宣言し、「広州コミューン」と呼ばれた。国民党軍は広州を再占領し、逃げ遅れた約5700人を殺害した。すさまじい内戦を写真は如実に物語る。<処刑された「広州蜂起」の関係者=1927年12月>

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飯野勝則・佛教大図書館専門員(台湾近現代史)
  祭礼のにぎわいを撮った何げない写真の裏側に、大阪朝日新聞台北支局長の「軍事記事掲載許可願」と、台北憲兵隊本部と台湾軍報道部のそれぞれ「検閲済」という、物々しい三つのスタンプがあった。なぜ、植民地統治下の神社のお祭りの写真まで検閲したのか、興味を覚える。<式年祭でにぎわう台湾神社=1940年10月、台北>

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有山輝雄・東京経済大教授(メディア史)
  膨大な写真のなかで戦場の死体や捕虜は少ない。この写真裏面には「要検閲」「注意 縛っているのが判(わか)らぬよう胸から上のみ使用のこと」とあった。縄を塗りつぶし、若者の顔の周囲を線で囲んだのが、検閲の結果だと判別できる。覚悟を決めた若い兵士の表情が心に残っている。<三民主義青年団員の捕虜=1939年3月、中国>

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早瀬晋三・大阪市立大教授(南方政策史)
  イスラム教徒にとって、メッカ以外にお辞儀をさせられることは屈辱だ。日本軍による「大東亜共栄圏」での文化的強制は、政治的抑圧や経済的困窮よりも、さらに大きな精神的苦痛を住民に与えた。当時の日本人の多くは、他のアジアの人々の気持ちを考えなかった。現在はどうか?<お辞儀するジャカルタの少年少女=1943年2月>

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西澤泰彦・名古屋大准教授(建築史)
  中華民国政府が建設工事に力を注ぎ、33年に完成した上海市政府庁舎が、そのわずか4年後、盧溝橋事件を機に一気に戦線を拡大した日本軍の攻撃に遭った。激しい砲撃で屋根や壁の各所に穴が開き、もはや使えない惨状を呈している。これぞ、日中戦争の象徴的な光景の一つである。<砲撃で破壊された上海市政府庁舎=1937年9月>

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蘭(あららぎ)信三・上智大教授(満州開拓移民史)
  中華人民共和国の成立後に再開された集団引き揚げを前に、日本人学校で、中国生まれの日本人の子に日本の地理を教えている。滞在が長引いた技術者など「留用者」の子らは、植民地(コロニー)帰りを意味する「コロン2世」と自称。日本の高度成長を支える世代の一員となった。<日本地理の学習=1953年、中国・ハルビン>

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軍事評論家・辻田文雄さん
  12~13歳だろうか。こんな少年が本来着るべきでない、大き過ぎる綿入れの軍服に悲哀を感じる。ドイツ軍の山岳帽に似た少年の帽子は、国民党軍や八路軍が使った正規のもので、ラッパは日本軍と同じ型。少年が兵になった経緯や、捕虜になった後の運命を考えずにいられない。<捕虜の少年ラッパ手=1941年5月、中国山西省>

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倉橋正直・愛知県立大教授(中国近現代史)
  中国南部の軍隊駐留地に、「大阪寿し」の看板と着飾った女性の姿がある。兵士の福利厚生を軽視した日本軍は、現地に進出した商人らと持ちつ持たれつの関係を築いた。こういった関係が戦局の悪化などで破綻(はたん)し、その後に「慰安婦」を強制的に集めるようになったと考えられる。<大陸の「大阪寿し」=1940年1月、中国江西省>

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